◆37【忠岡町役場】◆
595-0805泉北郡忠岡町忠岡東1-34-1/0725-22-1122
http://www.town.tadaoka.osaka.jp/
忠岡町は、大阪府の西南部大阪湾沿いの平野部に位置しており、面積が4.03k㎡の日本一小さなまちです。かつては漁業や毛布・ニットなどの中小繊維工業が盛んで、現在は大阪中心部まで30分ということもあり、大阪の通勤・通学都市になりつつあります。
・・・町立の資料館はありませんが、この日本一小さな町に、すごいミュージアムがあるのです。
◆【正木美術館】◆
595-0812泉北郡忠岡町忠岡中2-9-26/595-0812
室町時代の水墨画と墨跡を中心に、★正木孝之が約半世紀にわたって収集した東洋、日本の古美術を公開している。1968年開館。楷行草の書体を1巻に書き分けた小野道風筆『三体白氏詩巻』、和様の確立された書風を示す藤原行成筆『後嵯峨院本白氏詩巻』『大燈国師墨跡』の国宝3点、国の重要文化財12件を含む所蔵品は約1300点に及ぶ。
【正木孝之】
泉州は昔から良質の水に恵まれていたことにより、水洗いや染色などのために大量の水を必要とする繊維産業が栄えました。近年は、わが国の紡績工業の衰退に伴いかつて地元で働く若い労働者たちによって賑わった街の活気があまり感じられなくなっています。しかしこの地方は、茶道の大成者・千利休を生んだ堺に隣接しており、茶の湯の文化が町衆の間で広く根づいたところでもあります。当美術館の創設者・正木孝之(1895~1985)も、こうした泉州の文化的土壌の中で育ち、後に茶道を熱心に修業しています。孝之は代々続いてきた庄屋の当主として歴史や伝統文化に対する関心を自ずと身につけていました。その上、若いころから工務所や映画館の経営で財を成したことにより早くからコレクターの道を歩み始めています。
昭和43年に孝之は、満を持して多年にわたって収集してきた美術品と土地・建物を寄附し、「正木美術館」を設立しました。また、展示館の隣に住居かつ茶道の実践の場でもあった茶室付の正木記念邸(登録有形文化財)があります。
★昭和中・1949・1952改修「正木記念邸」登録年月日:20140425
南面する入母屋造桟瓦葺で、正面に渡廊下を介して玄関を構える。西端に土間を張出し、上手前列に八畳三室を並べて縁を廻らせ、北東隅に三畳台目と六畳の茶室を設ける。主室の琵琶棚と書院を取り込んだトコや、座敷境の欄間など、室内意匠も洗練された和風住宅。
・・・そしてもう一つ「忠岡町」で有名なスポットと言えば、
■永福寺のビャクシン
595-0813泉北郡忠岡町忠岡南1-14-3/0725-32-3731
http://www.town.tadaoka.osaka.jp/?free=%E6%B0%B8%E7%A6%8F%E5%AF%BA
浄土真宗本願寺派の寺。元弘2年(1332)、楠木正成が後醍醐天皇の命を受けて千早赤阪にて挙兵した時、ここ忠岡で庄屋をしていた兼孝は正成を助けて千早城に籠城したと伝えられる。神戸・湊川で正成が戦死した後、兼孝は正成の菩提を弔うために天台宗の仏門に入り、元弘3年(1333)、9代目安明兼孝改め了願が天台宗の寺を建立。その後、明応7年(1498)に蓮如上人が立ち寄り、浄土真宗に改宗された。最も高い木は、1198年に木曽義仲の家臣の今井兼慈が伊吹山より持ち帰って移植したと伝えられるもので、「大阪みどりの百選」大阪府天然記念物指定『びゃくしん(いぶき五株)』の大木がそびえ立ち、樹齢800~900年位と云われている。
【イブキ】ヒノキ科ビャクシン属の常緑高木。別名ビャクシン(柏槇)、イブキビャクシン(伊吹柏槇)。太くなった幹の色は赤褐色で、大木になると幹がねじれたようになります。
ビャクシン 幾歳月{イクトシツキ)か永福寺 歴史を繙(ヒモト)き その昔(カミ)しのぶ 村田徳
永福寺の境内に12世紀後半 建久1198年今から803年前 木曽義仲の家臣で今井兼滋氏が 伊吹山より持ち帰り移植したと 伝えられるビャクシン(イブキ)の一種 ともいわれ 今は大阪府の天然記念物に 指定された その由緒を尋ね訪れる人も すくなくありません 2001年