紡績・赤煉瓦建築(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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市外局番「06」

尼崎市は兵庫県に属するが、市全域が大阪市周辺と同じ「06」になっていて通話料金も大阪府扱いである。ただし、西日本電信電話の事業区域では兵庫県扱いになっている。


えんと1


の理由は、大阪市との経済的な結びつきが強い尼崎市が、1890年当時大阪までしか通っていなかった電話をどうしても尼崎まで通してほしいということで、有限責任尼崎紡績会社(現在のユニチカ)が自費で尼崎市まで通してもらい、そして1954年に市外局番が適用された際、尼崎市も大阪市内と同じ通話料金で利用できるようにとの配慮で、尼崎市が工事費の一部を負担し、大阪市と同じ市外局番になったという経緯がある。当時は市外局番が同じ場所へ通話をする際、料金が市外局番が違う場所の半分で済んでいたことから、尼崎市は大きな恩恵を受けた。


えんと2


・・・「ニチボウ貝塚」については、以前「貝塚市歴史展示館」を訪問させていただき、保存されていた体育館の床も実際にふれてきました。そして、さらにここで、様々な資料を見せていただき、涙が出そうです。


えんと3


尼崎紡績本社工場明治24年)施工:錢高組

http://www.zenitaka.co.jp/cgi-bin/search/search.cgi?mode=use&use=17


・・・工場の大きな2本のエントツがシンボルだったようですね。


えんと4


横山エンタツ18961971)

大正・昭和期の漫才師・俳優。本名:石田正見。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、「万才」に代わり、「しゃべくり漫才」を発明。今につながる漫才ブームを作った。現在の(全国的に流布した)漫才スタイルの元祖である。漫才作家秋田實の良き相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。吉本新喜劇初期の出演者でもある。「横山」の屋号を名乗る漫才師一門はエンタツを始祖とするが、本名は石田で、芸名の「横山」は出身地の三田市横山から取ったもの。初期には「横山エントツ」と名乗っていたという。幼少の頃から尼崎紡績の近くに住んでおり、工場の2本の煙突を見ながら育ち、芸人になる時に芸名を「エントツ」にしたところ、その後「エンタツ」として名を残す芸人が誕生したと言われています。



えんと5


・・・「オチ」までついて、本当に「堪能する」とはこういうことなんだなと実感しました。ぜひ、皆様も機会をつくって訪問してみてください。