・・・以前、ならまち「徳融寺」で出会った★「吉村長慶」像が気になっていました。吉村さんは、御霊神社近くの薬師堂町出身で、のちに★「きたまち」に「長慶橋」や「長慶寺」を設置したということなので、その「長慶寺」に行ってみたいと思います。
【参考1】「宇宙菴・吉村長慶」著:安達正興/奈良新聞出版
http://homepage2.nifty.com/lite/hard_column.html
奈良新聞社は、幕末の「奈良町」に生まれ、地元では「三尺将軍」と呼ばれ、明治から昭和の激動の時代を生きた奇豪・吉村長慶の破格の人生を追った人物評伝『宇宙菴・吉村長慶』を発行。奈良市出身で、北欧・ノルウェー移住者の安達正興氏が、没後70年を経て資料も極めて乏しい中で関係者や資料を探し出し、郷土の偉人・奇人の78歳の人生の軌跡を、豊富な写真資料を添えて1冊にまとめました。長慶は質商・金融業★北浜の相場師として活躍し、稼いだ資金を生涯にわたって200を超える石造物の制作につぎ込みました。お抱えの石工を雇い、私費で★佐保川などに橋を架け、石灯、道標、石碑、自像、墓標、磨崖仏などを奈良、京都、大阪、和歌山(高野山)の近畿各地の神社仏閣に奉納。一方で、奈良市議、「宇宙教」の唱導者、長慶寺の住職、ルポ「清国事情」の執筆者、「世界平和会」の創設者、「畿内遷都論」の提唱者とさまざまな顔を持つ、地球的な視野で行動した独立自尊の思想家、一級の「実践的知識人」でもありました。その破天荒な生きざまは、閉塞感の中に生きる現代人に、活力を与えてくれます。
◆茶道発祥の地
やすらぎの道に、「茶道発祥の地、茶礼祖・村田珠光旧跡、称名寺、右」という道標が立っています。室町時代に茶禅一味の茶の湯を開いた村田珠光(1422-1502)が、11歳で出家し青年期を過ごしたお寺。京都大徳寺でわび茶を開いてからも、度々奈良を訪れ、称名寺に独慮庵を設けました。千利休は、孫弟子に当たります。毎年、5月15日には、その功績を称えて、珠光忌が開かれ、抹茶が振る舞われます。本堂を右に行くと、千体地蔵に目を奪われます。昔、海空和尚が、付近に散在していた石地蔵をここに集めて供養したと伝えられているものです。
◆厄除け発祥の寺「慈眼寺」
630-8252奈良市北小路町7/0742-26-2936
史書『南都年中行事』によりますと、当寺の創建は聖武天皇の勅願により観音堂に守り仏を安置したことが始まりとされます。境内二丁四方、寺領百石余りある南都諸大寺の一つでしたが、松永久秀の乱逆により荒廃し、その後復興されました。本尊の聖観世音菩薩に古来多くの方々が厄除け・厄払いに訪れます。
【参考2】「やすらぎの道」交通戦争に当時願い込め
気になる道路が奈良市中心部にある。近鉄奈良駅西側を南北に走る市道「やすらぎの道」だ。交差点の上には、「積徳(せきとく)運転『やすらぎの道』奈良市」の看板。こんな名前が、どうして付いたのだろう。「車が多くて落ち着かない。何で、やすらぎなん?」月に何回も通るという市内の女性(47)が、首をひねった。沿道の店で働く人に尋ねた。「人が、のんびり歩いているからかな」。何人かに尋ねたが、結局、理由はわからずじまい。ただ、近くで1966年からクリーニング店を営む福田喜美子さん(84)が、「50年近く前、道幅を広げる時に名前が付いたんちゃうかな」と教えてくれた。道路を管理する市の担当者に聞いてみた。土木管理課の山田精二さん(44)から返ってきた言葉に、また驚いた。「やすらぎの道は、市内に二つありますよ」いつも私が通るのは、奈良市法蓮町―南京終町2丁目間の六条奈良阪線で、延長約2・5キロ。もう一つは、同市登美ヶ丘4丁目―学園南3丁目間の約3キロ。登美ヶ丘中町線の一部だ。山田さんは、1972年の「市民だより」を見せてくれた。やすらぎの道は、この頃着工したようだ。当時の市長、鍵田忠三郎さんの弁で、道の名前の由来がわかった。「スピードを出したくても出せないような安全な道路、すなわち、やすらぎの道の設置を提案したい」とある。そうだったのか。世は、高度経済成長期。交通事故が、深刻な社会問題になっていた。県内の人身事故は60年頃から急増し、県警によると、70年にはピークの5322件に達して1年で156人が亡くなった。多くの人が犠牲になる状況を、交通戦争と呼んだ時代だ。2013年の5076件、死者42人と比べると、深刻さが際立つ。やすらぎの道は、こうした時代を背景に整備された。車が凶器とならないようにと願いを込め、植栽やカラー舗装を備えた、当時、最先端の道路だった。では、「積徳運転」とは何だろう。市交通政策課の担当者は「設置当時のスローガンだったのかもしれない」と推測する。「徳を積む運転とは、つまるところ安全運転、人を思いやる運転をしましょう、ということなのでは」来歴を知ったあと、再び、やすらぎの道を通った。看板を見ながら高天交差点を、いつもよりゆっくり南へと向かう。年を重ねて古くなった終点近くの道の看板が、「ごくろうさん」とねぎらってくれた。鍵田さんが、市の職員によくかけた言葉だという。道との出会いが、改めて安全運転を積み重ねていこうと思うきっかけになった。(2014年05月14日読売オンラインより)
◆大佛鉄道記念公園/奈良市法蓮町986
奈良市内には昔の面影を偲ばせる遺構はほとんどなくなっていますが、1992(平成4)年奈良市と地元の自治会の協力で大佛鉄道を記念する小公園が作られ、機関車の動輪のモニュメントと説明碑が取り付けられた。その後、通称「三角公園」について、公式名として大仏鉄道記念公園とネーミングする活動があり、奈良市長認可を得て2007(平成19)年度予算をもって6月末に公園のネームプレートが設置されました。
【関西鉄道は明治28年に草津・名古屋間を全通した。それから柘植から大阪方面への進出を計り、2年後の30年11月に加茂まで開通しまた。ここから梅谷を経て黒髪山トンネルを下り、1898(明治31)年4月、奈良市法蓮の「大仏駅」を設置した。この鉄道は、市民・観光客にも親しまれ、大仏詣での人達もこの駅で下車し一条通りを通って東大寺に参拝していた。奈良駅へはその年の12月に到達したが、乗り入れが実現したのは翌32年5月であった。その後、路線が木津経由に変更となり、1907(明治40)年8月までの約9年間で廃止された。】
・・・今から100年以上もの昔、ここに「大仏駅」があったのですね。
※「法蓮町」は「法蓮山興福院(
奈良市法蓮町881)」に由来するらしい。碑の最後に「長屋王」の歌が記されています。
佐保(さほ)過ぎて寧楽の手向(たむけ)に置く幣(ぬさ)は妹(いも)を目離(めか)れず相見(あひみ)しめと
◆長慶寺/奈良市法蓮町863-1
参道手前に「是より境内地 死んだ宗教を活かす長慶寺 神佛となるは生きた人間にかぎる」と掘られた石柱が立っています。頑丈に閉じられた門の前に、大きな石に碑文などが刻まれています。(融通念仏宗)佐保山普門院「長慶寺」、吉村長慶師(1863~1942)が私費を投じて建立開基したお寺です。境内の岩窟内に、十数体の観世音など金色の仏像が刻まれているそうです。長慶さんの没後昭和17年以来、閉山していますので何人も門内には入れません。
・・・神佛となるは生きた人間にかぎる、深い言葉かもしれません。




