船場物語(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・もう少し「中山岩太」について調べてみます。

中山岩太(18951949)

1918年に東京美術学校臨時写真科(第一期生)を卒業。農商務省海外実業練習生として米国カリフォルニア大学に派遣され、ニューヨーク、パリで写真館の経験を経て1927年に帰国。1930年に兵庫県芦屋で「芦屋カメラクラブ」を結成。1932年に野島康三、木村伊兵衛と共に同人誌『光画』を創刊。1936年より神戸大丸に新設の写真館に勤める。1939年に野島と福原信三が設立した国画会写真部に参加。パリ時代にはマン・レイらと交流し、新しい美の発見に喜びを見出した。モダンな感覚表現と複数のネガを組み合わせて創作する幻想世界を真骨頂とした。


・・・なんと「大丸」との関係があったんですね。


「大丸写真室」

元町通にすずらん燈が出現し、街にモダンボーイやモガが闊歩し、「本庄商会」「赤壁商店」「安井写真機店」の店頭に高級舶来カメラが並んだ昭和初期に、日本に本格的な「写真ブーム」がやってきました。元町通各丁ではカメラ小売店に商売替えする店や店舗一部で写真室を開業する店も増えました。マン・レイやモホリ・ナギらが試みた「フォトグラム」を独自に試した作品で藤田嗣治の賞賛を受けて帰国した中山岩太は東京の華族会館勤務を経て、南仏に似た芦屋に移住したのが昭和年(1929)。商業デザイナーの今竹七郎と「神戸商業美術研究会」を結成したその翌年に、《福助足袋》で第1回国際広告写真展の1等賞を受賞、ハナヤ勘兵衛、紅谷吉之助らと「芦屋カメラクラブ」を結成、大阪の「浪華写真倶楽部」と並んで日本の写真界をリードすることになりました。昭和14年(1939)にそんな写真家に目をつけた大丸百貨店が元町店内に開設したのが「大丸写真室」。1930(昭和5)年に、神戸大丸発行の『神戸店友』に口絵写真を掲載してから、中山と神戸大丸との関係は始まり、やがて1936(昭和11)年には大丸写真室を担当します。神戸・元町に出かけて中山岩太にポートレート写真を撮ってもらう。それがとびっきりのお洒落だった時代でした。1936年から中山は神戸大丸に開設された写真室を引き受けていたので、毎日芦屋から神戸に通勤していました。そして次第に神戸の道に愛着をいだくようになり、神戸の風景を撮影し始めました。そして、1939年に神戸市観光課は神戸の写真の撮影を中山に委嘱しました。居留地や洗練された場所ばかりを写すのではなくて、相楽園、湊川神社をはじめとする名所、旧蹟なども撮影しました。



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【参考】「ハイカラに、92歳―写真家中山岩太と生きて」/著:中山正子

美しいものに出逢はなかった時には、デッチあげても、美しいものに作りあげたい―いま注目を集めるモダニズムの写真家中山岩太。東京、ニューヨーク、パリ、そして芦屋。新しく華麗に歩いた92年の回想記。夫とともに1920年代の米欧を体験し、明治、大正、昭和をつねに美しく華やかに生き、いまも活躍する著者が92歳で初めて書き下した愛とロマンのメモワール。写真家の妻として、ご本人も教育者、福祉活動家として人生を送られた中山正子さんの自叙伝。大正ロマン漂う女学生時代、戦前のニューヨークでの生活。パリに芸術家が集まっていた20年代にパリに渡り、かのマンレイやキキのエピソードや藤田氏との交友など、この時期だけをとっても貴重な文献で

・・・もちろん、注文しました。



芦屋カメラクラブ

中山岩太を中心に結成された、写真家による団体。1930年結成。主要なメンバーは、中山の他、ハナヤ勘兵衛(桑田和雄)、松原重三、高麗清治(高清、田中一、小松三郎、佐伯良)、紅谷吉之助、山川健一郎、橋本好文(橋本恭典)、三浦義次、若柳義太郎、近松嘉吉、中岡健治、花和銀吾、佐溝勢光、河原井晋、梅林長次郎、池田菊治など。1942年まで存続した。第二次世界大戦後も、中山、ハナヤらは写真撮影を継続したわけだが、にもかかわらず、旧メンバーによる、芦屋カメラクラブの後継的な写真クラブが結成されることはなかった。

芦屋写真協会 http://ashiyaphoto.jp/

昭和初期の芦屋では中山岩太・ハナヤ勘兵衛などの写真家たちによる『芦屋カメラクラブ』が創設され、新興写真運動が興り、日本の写真芸術の先駆けとなりました。その伝統を引き継ぎ、2011年月に『新しき美の創作』と『新しき美の発見』をテーマとする団体『芦屋写真協会』が設立されました。「写真の街・芦屋」を拠点都市として老若男女問わずに集い、様々な写真活動を通じて文化と社会の構築に参画することを目標として国際色豊かでグローバルな活動を展開していきます。


「ハナヤ勘兵衛

659-0071兵庫県芦屋市前田町3-60797-31-3902

http://www.hanakan.com/

ハナヤ勘兵衛(桑田和雄)1903年大阪市西区江戸堀に生まれる。1929年26歳芦屋に写真材料店を開店(現在の店舗よりやや西)ハナヤ勘兵衛を名乗るようになる。1930年27歳芦屋カメラクラブを結成。1932年29歳現在の場所に店舗を移転。ここは写真愛好家にとって聖域のようなお店です。昭和年、初代ハナヤ勘兵衛さんが写真材料店を開きました。芦屋では唯一の写真店でした。その頃はまだ庶民にはカメラは手に入りません。珍しいお店の開業に数少ない写真愛好家さん達がたくさん集まってきました。そして同じく芦屋在住の写真家中山岩太さんと共に昭和5年「芦屋カメラクラブ」を結成し、芦屋だけでなく全国の写真愛好家から注目されるお店となりました。現在代目の社長さんが切り盛りされています。既に代目の息子さんもお店をお手伝いされて、ハナヤ勘兵衛さんは芦屋で100年の歴史を刻もうとしておられます。


【参考】兵庫県立美術館

過去・現在・未来がテーマの企画展「阪神・淡路大震災から20年」

2014(平成26)年11月22日(土)~2015(平成27)年3月8日(日)

http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/j_1411/

震災をテーマにした展覧会「阪神・淡路大震災から20年」が現在、兵庫県立美術館(神戸市中央区)で行われている。同館所蔵品を中心とした約130点を「自然、その脅威と美」「今、振りかえる―1.17から」「10年、20年、そしてそれから」の3部構成で展示する。同展では、被災地域の文化財を救出する「文化財レスキュー」の事例なども紹介。震災で全壊した芦屋市中山写真スタジオのレスキューには同館も協力し、戦前の写真家・中山岩太さん(1895-1949)の写真作品や大型カメラなどを救い出したという。また、ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめ国際的な活躍で知られる明石市出身の写真家・米田知子さんが、2005年に発表したシリーズ作品8点を展示。同シリーズは、米田さんが実際に被災地の芦屋市を取材したもので、一見すると身近な日常を感じさせるような光景の連なりの中にも震災の記憶が伺える。


いわた2


・・・ついでに「地下足袋」についても調べてみました。

地下足袋

http://www.asahi-shoes.co.jp/

「日本ゴム」や「アサヒ地下」(現アサヒコーポレーション)。同社は、福岡県久留米市の家業の仕立物屋「志まや」を継いだ石橋正二郎が業務の一部としていた足袋製造を専業とし「志まや足袋」を創業、1914(大正3)年に商標を「志まや足袋」から「アサヒ足袋」へと変更する頃には、先行する大手の足袋会社と肩を並べるほどに成長した。1918(大正7)年には兄の二代目徳次郎を社長、正二郎を専務取締役として、「日本足袋株式会社」を設立(株式会社組織とする)。第一次世界大戦後の不況を新製品開発で乗り切ろうとした日本足袋は、ゴム底足袋の開発に着手し、1921(対象10)年には縫付け式地下足袋の工業生産に成功し発売を開始した。まだ、品質的には問題があったようだがこれを改良し、足袋の本体とゴム底を接着剤で貼り付ける製法を開発し、「張り付け式ゴム底足袋」の実用新案を取得。1923(大正13)年には「アサヒ地下足袋」の商標で同製品の発売を開始。発売後、地下足袋は急速に日本全国へと普及し、労務者の履物がわらじから地下足袋へと切り替わったという。この貼付け式地下足袋の大ヒットは、後に石橋財閥が形成されていく礎石となった。1931(昭和)年にはタイヤ部門が「ブリヂストン」として独立。1947(昭和22)年に日本ゴム株式会社と名称を変更し、「アサヒ靴」のブランドでゴム靴のトップメーカーになる。1988(昭和63)年には株式会社アサヒコーポレーションとなっている。

http://www.asahi-shoes.co.jp/walkland/tabi/roots.html

【参考1】福助電車の運行

http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/doro/toshikotsu/hankaisen/fukujodensha.html

阪堺線沿線での集客と利用者の増加を図るため、平成23年1月7日(金曜)から、阪堺電車の車内に福助人形を展示した「福助電車」を運行していましたが、車内液晶表示機を展示箇所へ設置することになったため、平成25年11月上旬から人形を取り外し展示を一時中断します。なお、搭載車両の調整等が整い次第再開する予定。


いわた3


【参考2】高山に「招福蔵」-地元コレクター所有の「福助」ずらり1000体

高山の「老田酒造店」店内にある「蔵小路」(高山市上三之町)に2013年4月2日、地元在住の「福助人形」コレクター・黒田隆一さんの展示館「招福蔵」(しょうふくぐら)がオープンした。老田酒造店は、2008年7月に高山の観光名所「古い町並み」中心地に位置する「土川邸」を同店の小売店舗に改装したもので、店内奥へと続く「蔵小路(くらこみち)」には、土川邸の土蔵空間をそのまま活用した雑貨店などが軒を連ねる。同館は、その一角でもこれまで「開かずの蔵」として長年保存されてきた「文書蔵(通称、金庫蔵)」を活用。館内には、高山市在住の菓子職人・古物商で国内有数の「福助人形」コレクターとして知られる黒田隆一さんが所有する江戸中期から昭和30年代の「福助人形」約1000点が壁一面に並ぶ。黒田さんと福助の出合いは20歳のころ、江戸時代作という一体の「福助の土人形」偶然手にしたことがきっかけ。「3・4体目あたりから完全にハマり、古物商仲間などの協力も得ながら数を増やし続け、書籍、ポスター、看板、陶器類、歌舞伎物(中村福助)、レコードといった珍品まで、とにかくありとあらゆる『福助』関連品に手を出した(笑)。以来40年、気がつけば足の踏み場もないほど福助に囲まれていた」と笑う。「展示品はほんのごく一部。自宅には土人形だけでもこの倍以上、コレクションを全部合わせたら5000点以上あるはず。8年ほど前には★『福助足袋』の会社の人が訪ねてきたことも。『余裕でうちのコレクションよりある』と驚かれ、もちろん福助人形もしっかり頂いた(笑)。でも一番のお気に入りはやはり初めの一体」と目を細める。これまで「黒田コレクション」は、うわさを聞いて訪ねてきたごく一部の人にしか公開してこなかったという。「展示しようにも適当な場所がなく、今回『開かずの金庫蔵』を貸してもらえると聞いて、一大決心した」と黒田さん。「かつて落語家の林家こぶ平さんと一平さんが私の福助を見に来られて、程なく正蔵、三平を襲名した。ほかにもそういった話には枚挙にいとまがないので、多分効果は折り紙付き。


・・・ガチャポンの「福助」がありました。


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小説家・山崎豊子

1924年老舗昆布屋の娘として大阪で生まれました。毎日新聞社に入社し、勤務の傍ら小説を書いていました。そして、1957年に生家の昆布屋をモデルにした「暖簾」でデビュー。翌年には吉本興業の創業者をモデルにした「花のれん」で第39回直木賞を受賞。新聞社を退職し、作家生活に専念。初期の作品は出身地大阪をモチーフにした作品が多い。足袋問屋の息子を描いた「ぼんち」や大阪大学医学部をモデルとした「白い巨塔」、当時の神戸銀行をモデルとした経済小説「華麗なる一族」などの作品が挙げられます。しかし、その後はテーマ設定を大阪から離し、社会問題全般に広げていきました。戦争の非人間性を描いた3部作「不毛地帯」、「二つの祖国」、「大地の子」を発表した後、日本航空社内の腐敗や事故について扱った「沈まぬ太陽」を書き上げました。近年では、西山事件をモデルとした「運命の人」を2009年まで連載していました。そして、2013年8月より週刊新潮で新作「約束の海」の連載を開始していましたが、第1部を書き上げた後に体調不良で入院し、作品は未完のまま2013年9月29日に88歳その生涯を閉じました。


いわた5


「ぼんち」(1960)原作山崎豊子監督市川昆

大阪・船場で四代続いた足袋(問屋の河内屋。四代目の喜兵衛(船越英二)は婿養子であり、店は実質的にその妻の勢以(山田五十鈴)と、その母のきの(毛利菊枝)が支配していた。五代目で一人息子の喜久治(市川雷蔵)は、妻の弘子(中村玉緒)を母と祖母に追い出され、花街に足を向けるようになった。父が死に、河内屋の若旦那となった喜久治は金にものを言わせ芸者のぽん太(若尾文子)、幾子(草笛光子)、女給の比佐子(越路吹雪)など次々と妾を作っていく。やがて戦争が始まり、河内屋も蔵を一つ残すだけで全焼してしまった。おとなしいが破天荒な喜久治の生きざまを描く。


・・・さて、現代において「ぼんち」や「足袋」はいかに?