船場物語(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「船場」の語源については、しばしば戦争があった場所で「戦場」と呼ばれた大坂城の馬を洗った場所で「洗馬」と呼ばれた砂浜であったため「砂場(さば)」と呼ばれこれが転訛して「センバ」となった古代は船着き場であって着船場の「着」の字を省いて「船場」となった、などの説があります。

【参考】大阪船場繊維卸商団地(愛称COM ART HILL)

http://www.comart.jp/main.html

大阪市中央区の船場は古くから商都大阪の中心で、繊維問屋や商社・金融機関が狭いエリアに密集していました。戦後の高度成長期になるとその過密ぶりが限界に達し、都市機能に支障をきたすまでになりました。そのため船場の繊維問屋(の一部)が、集団で移転しました。箕面市の「船場」の地名は、もともと大阪市都心の船場にあった繊維問屋が1970年(昭和45)集団でこの地に移転してきたことに因みます。新たに建設されたこの繊維問屋街は正式名称を「大阪船場繊維卸商団地」といい、団地所在地の箕面市の町名も「船場」の名が採用されました。



・・・船場は「繊維の町」、「福助」を避けて通るわけにはいきません。


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★福助

天明年間(1781-1789)には牛(撫牛)が大流行した。そのあとに続いておこったのが福助人形の流行であった。これもおそらく伏見人形屋が創り出したものであることが、当時の記録などから推測することができる。それを裏付けるかのように、伏見人形の古い窯元、丹嘉には大小たくさんの福助人形の原型が保存されている。頭の大きな小男の姿を福神として祀れば招福開運まちがいなしということで、ことに商家からひとしお歓迎された。この福助のことを、上方では「大文字屋」とも呼んだが、これはもと伏見京町北八丁目で古着行商をし、一心に商売にはげんで、わずか30年ほどで、京都、江戸、大坂、名古屋に大店を構える一世の豪商となり、巨富をきずいた大文字屋下村彦右衛門が、仁徳にもすぐれ、人々から大へん慕われたが、彼のスタイルが頭大の小男であったことから、彼をモデルにこの人形を作ったともいわれている。この下村彦右衝門はいうまでもなく、現在の大丸百貨店の始祖で、江戸中期に実在した歴史上の人物で、それに出身が、伏見人形屋のひしめいた深草のすぐ近くであった。いずれにしても、この福助人形はまたたくうちに、大坂・江戸をはじめ全国的に大変な流行となり、人形だけでなく、唄や踊りまではやるしまつで、撫牛は影をひそめてしまった。江戸へは享和3(1803)年に大流行したことが、大田蜀山人の「一話一言」に出ているのが最初のようで、文化年間(1804~1817年)ともなると一層その流行がエスカレートしたことが、さまぎまな当時の見聞録に記されている。流行のすさまじさは全く昔も今もあまり変らないらしい。現在もよく見うける袴姿でお辞儀をした童顔で大きな福耳をつけた姿の福助人形は明治33年(1900年)に堺福助足袋株式会社(はじめは福助印堺足袋)が商標として、その後伏見人形窯元丹嘉に依頼して作ったのが祖型で、それからこの型が人気を得て、類似品がたくさん出廻っている。もちろん、童形の福助も以前から人形をはじめ、絵本などにも出てくるが、この型は丹嘉が、当時、稲荷山にいた博多人形師石田菊次郎に原型を作らせたものである。


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伏見人形窯元丹嘉

605-0981京都市東山区本町22-504075-561-1627

http://www.tanka.co.jp/index.html

伏見人形は江戸時代後期に最盛期を迎えた最も古い郷土玩具です。全国で90種類以上もある土人形のなかで、伏見人形の系統をひかないものはないと言われるほどの土人形の元祖であり、民俗的な美しさを誇っています。当時、伏見街道沿いには、約60軒もの窯元が軒を連ねたが、現在では寛延年間(1750年頃)創業の当窯元、丹嘉のみ。その起源はむかしむかし歴史に名高い野見宿称の後裔にあたる土師氏が統轄して土師部(土でいろいろなものを造る人)に土器を造らせていました。垂仁天皇の時代に朝廷より土師職に任命され、伏見深草の里に住んで土器、土偶(土人形)を創りだし、ここに生まれたのが伏見人形です。代表的なものは、稲荷大社の祭事に使われる耳土器をはじめ、お使姫のお狐さんや饅頭喰い、チョロケン、玉、でんぼなどがあります。現在残っている原型、土型は2000種ほどで、往時の風俗伝説を人形に表現したものがほとんどです。ユーモアに富んだ面白さ、豊かな味、そしてその一つ一つに滲み出て来る庶民的な素朴さは、外国の人々にまで親しみを持たれています。



【参考】福助人形の由来

摂州の百姓佐五右衛門の子供佐太郎説佐太郎は身長2尺足らずの低い背丈に大きな頭を持った容貌をしていた為、村の者達からからかわれていました。それに対して居たたまれなくなった佐太郎は東海道を下る旅に出ました。途中小田原で香具師に誘われ「見せ物」として暮らす様になった佐太郎は大変な評判を得て、江戸両国でも人気者に。「不具助」を文字った「福助」と名付けられ、福々しくて縁起が良いとますます評判となりました。ある時、某旗本の息子が遊び相手に福助を選び、金50両で香具師から譲り受けられました。その後その旗本は幸運続きとなり、福助は寵愛される事になりました。女中と結婚した福助は永井町で深草焼をはじめ、自分の姿を模した像をこしらえ売りに出すと、これもまた流行したそうです。

伏見村の彦田郎説八代将軍吉宗の頃、伏見の村に彦田郎という、頭が大きく背の低い垂れ下がった耳を持つ子どもが産まれました。9歳で京都上長者町の呉服屋「大文字屋」に奉公に出て主人に認められました。やがて独立して伏見の京町に「大文字屋」の支店を構え、名前も彦右衛門と改め、名古屋からお常と言う嫁をもらいました。お常の実家の名古屋で「大」と染めた手ぬぐいを売り出したところ大当たりし、あっという間に大店の主へと出世しました。

伊吹のもぐさや「亀屋」説お灸に使う「もぐさ」は、滋賀県・伊吹山麓でとれる「伊吹もぐさ」が有名であるが、この伊吹山麓の柏原宿にもぐさ屋「亀屋佐京」(伊吹堂)があり、江戸後期に、その店に「福助」と言う名の番頭がいたそうだ。その番頭福助が、誰もが知っているあの大きな頭と、背の低いからだに裃(かみしも)の礼装をして、深々とおじぎする伏見人形で知られる「福助」で、これが、福助足袋(たび)の登録商標「福助」のモデルだと言われている。なんでも、この番頭の福助は正直一途で、感謝の心を忘れず、常に客に真心で接したため、商売は大いに繁盛したそうで、この話を伏見の人形屋が聞き、福を招く縁起物として売りだすと、大流行して、どの商店の店先にも飾られるようになったという。現在も、亀屋の店頭には150年続くという(現代のものは二代目)巨大な福助像が祀られているそうだ。


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★福助足袋【創業1882年(明治15年)】

http://www.fukuske.com/index.html

「福助」の前身は、足袋装束卸問屋として明治15年、大阪・堺に創業。現在もなお130年間培ったスピリットと技術を継承しながら、『福助』の社名が表すような、お客様の幸福を手助けできる企業をめざしております

当社は明治15年に辻本福松が足袋装束商として創業し、商標を自分の名前の一字を取って、“丸福”としました。商標“丸福”は、明治25年2月5日に出願、同年4月1日に登録されています。ところが、明治32年のこと、和歌山市の足袋業者から、この商標は先に使用しているということで、“丸福”の商標取り消しの訴えがありました。福松は意外なできごとで驚きましたが、きっとこれは何かの間違いであろうと円満な解決に向かって努力しました。しかし、当時の商標条例は極めて不備で、結果は辻本側の敗訴となりました。明治33年正月、福松の息子豊三郎が吉例のお伊勢参りの帰途、古道具屋で裃に威儀を正した福々しい福助人形に出会いました。ハっと胸を打たれた豊三郎は「これだ、これを新しい商標にしよう」とさっそく買い求めました。豊三郎は心もそぞろに帰堺し、この人形を父福松に見せました。福松も「これこそ願ってもない商標だ。よいものを授かった」と手を打って喜びました。この伊勢詣での際に見つけた福助人形は、かみしもを着て正座し、手に扇子ををひろげ持った姿をしていました。そこで福松親子はこの人形に、人間の徳をあらわす仁・義・礼・智・信のイメージを加えました。頭を低くし、手をついて礼を尽くすというポーズの福助人形は、明治33年月18日福助の商標として許可され、文字どおり禍(わざわい)を転じて福となした福松父子でした。足袋業界の先頭を行く旗印、輝く商標“福助”はこの時に誕生したのです。これが社宝「伊勢路福助」です。現在も全国に親しまれている、あのにこやかな福助マークのはじまりは、伊勢詣で初代社長辻本豊三郎が「授かった」と喜んだ招福の神、社宝「伊勢路福助」です。

○大阪事業所

542-0081大阪市中央区南船場4丁目3-11大阪豊田ビル5階06-7636-9500

福助ロジスティクス株式会社(堺商品センター)

590-0065堺市堺区永代町3丁1番1号072-223-2152

【参考】機械縫製足袋

http://www.sakai-tcb.or.jp/about_sakai/1-3.html

それまで熟練工が一足ずつ仕上げ一日三足ぐらいの足袋製造を、明治二十八年に福助足袋の創業者辻本福松が、ドイツ製の靴縫機械を改良してその機械化に成功しました。足袋縫ミシンの特許第一号も取得しています。


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10月日は「足袋の日」

日本足袋工業懇談会が1988(昭和63)年に制定。10月は七五三・正月・成人式と、これから着物を着る機会が多くなるシーズンであり、末広がりで縁起の良い八日を「足袋(たび)の日」としたそうだ。足袋とは、日本固有の伝統的な衣類で、足に履くものであり、この足袋は大きく分ける、座敷足袋(岡足袋)と地下足袋とに分かれる。座敷足袋(岡足袋)は、洋服のくつ下にあたる、足を覆い包む和装小物であり、日本の伝統的な履物である下駄・雪駄などを履く際に用いられ、女性は白のキャラコが普通だが、家庭用は別珍、コール天などの色ものが使われ、特別注文では羽二重などの高級品もある。また、こはぜは3~4枚が一般的で、踊りなどで用いる場合は、5~6枚ものを別誂する。男性は白が礼装用で、黒や紺が普段用。昔はほとんどが皮製で、指先の割れていない形のものであったが、室町時代以降には現在の形になった。又、地下足袋は、丈夫な生地で作られた本体にゴム底を貼り付けたもので、直接屋外で履く事ができるようにした足袋である。足袋は日本固有の文化の中で進化してきた重要な衣類の一つであるが、応神天皇の時代に中国大陸から伝わってきた「襪(しとうず)」が元になっており、その襪は半長靴のように、指の股はあいておらず、原料は麻や絹が多く用いられていたようだ。鎌倉時代、武士が戦場で履くため、皮で作られ、先が2つに分かれたと言われている。 そして、江戸時代初期に起きた明暦の大火「振袖火事」(1657年)によって皮が品不足となり高騰したことから、木綿が使われたそうだ。《火消しの皮装束(皮羽織、皮足袋)を大量に作ったため皮が不足が起こったとも・・・》そして、、この木綿の足袋が、参勤交代の武士によって、全国に急速に広まっていった。この木綿製足袋の普及と同時に、紐止め式から現代の「こはぜ」と呼ばれるものになってゆき、この方式は江戸後期から明治前期にかけて普及した。ちなみに、「タビ」という名称は、一重の皮から作られた「單皮(たんび)」からきたものであるともいわれている。戦後間なし頃までは、着物を着る機会も多く、足袋を履くことも多かった。着物を着なくても服に下駄を履いたりしていたので足袋を履いていた。(下駄の歯の長い書生下駄が流行っていた)。関西のものにとっては、足袋と言えば、福助の足袋である。


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「福助足袋」1930年、第一回国際広告写真展一等受賞

日常的なものをテーマとした広告写真の草分け的作品。伝統的な足袋をモダンでシャープな表現でとらえ、一度見たら忘れられない印象を与える中山岩太の代表作のひとつである。中山岩太(1895年8月3日1949年1月20日)は、戦前の日本の新興写真を代表する写真家の1人。1918年に東京美術学校臨時写真科を卒業(第1期生)、農商務省の派遣で、アメリカのカリフォルニア大学で学ぶ。1926年には渡仏。マン・レイや未来派のエンリコ・プランポリーニと知り合う。1927年に日本に帰国。1932年には、野島康三、木村伊兵衛と雑誌『光画』を創刊。日本の戦前において、福原信三と並んで、海外の同時代の写真を、自分の身をもって体験した数少ない写真家の1人。フォトグラム、フォトモンタージュなど、高度な技術をも駆使して、スタジオ内で作り上げられた華麗な作品群は、単なるヨーロッパの前衛写真の物まねにとどまらず、中山独自の美意識を十分に表現したものとなっており、戦前の日本の写真の1つの到達点として、高く評価されている。


・・・「福助」「足袋」について、調べれば調べるほど奥が深いなあ。