◆三木楽器株式会社(開成館)/登録年月日:19970903
541-0057大阪市中央区北久宝寺町3-3-4/06-6252-0431
http://piano.miki.co.jp/kaiseikan/
1825年(文政8年)「河内屋佐助商店」と称し、書籍業として創業する。歴史が長く、表明している限りでは日本最古の楽器店である。1888年(明治21年)楽器(オルガン)の販売を開始する。1903年(明治36年)ピアノの販売を開始する。1921年(大正10年)ドイツ・スタインウェイ社の日本総代理店となる。1925年(大正14年)合名会社に組織変更し、大阪開成館「三木佐助」商店と改称する。1956年(昭和31年)株式会社に組織変更し、「三木楽器株式会社」と改組する。開成館の建物は、1924年竣工。大阪市内の小学校をたくさん建てた建築家★増田清さんの設計です。鉄筋コンクリート造、地上4階地下1階建の楽器店。設計は増田建築事務所、施工は鴻池組で、ドイツの楽器店を模したと伝えられています。大正期の都市部における中層商業ビルの好例で、外壁をタイル張りとして縦の線を強調した外観によく時代の特徴があらわれています。
※心斎橋店/542-0085大阪市中央区心斎橋筋1-9-4
・・・ドイツの楽器店を模したということなので、たぶん
【参考】スタインウェイHAMBURG STEINWAY&SONS
"世界のピアノの代名詞"と言われるスタインウェイは、その創業者であるハインリッヒ・エンゲハルト・シュタインヴェーク(のちに「ヘンリー・スタインウェイ」と英語流に改名)が苦しい修業の末、1836年ドイツのゼーセンの自宅のキッチンで最初のピアノを作り上げました。これがスタインウェイピアノの第1号"キッチンピアノ"です。
・・・こじつけかもしれませんが、雰囲気は似てるような気がします。
【増田清】(1888~1977)
福島県出身。東京帝国大学工学部建築学科卒。安藤建設大阪支店勤務後、大阪府土木課勤務など経て、1924(大正13)年増田建築事務所を開設。帝国大学で鉄筋コンクリート造を学び、大大阪時代に大阪市内に15校もの小学校を設計しています。「増田清なしには大阪の鉄筋コンクリート建築は語れない」といわれるほど、近代化の初期におけるコンクリート建築に貢献した人物で、作家の阿川佐和子さんは増田清のお孫さんにあたるそうです。その一つ「精華小学校」は昭和4年(1929年)竣工。鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)で地上4階・地下1階、エレベーター2基・全館スチーム暖房で工費59万7770円。現在の金額で数十億円?市の予算ではなく寄付金だったようです。昭和4年の小学校ですが、スチーム暖房、エレベーターまで備えた豪華な造り、戦争・空襲をくぐり抜け現存していました。しかし、保存運動むなしく売却・解体されてしまいました。
※大阪市はもと「精華小学校・もと精華幼稚園」跡地を対象に公募型プロポーザルを実施し、2013年2月に成信を最優秀提案者に選んだ。提案価格は35億8880万円。予定価格は25億3290万円だった。プロポーザルには5件の応募申し込みがあり、計画提案から優秀事業者として2件を選定した後、価格提案審査を実施して成信に決めた。成信はアデランスの創業者で、現在も会長兼社長の根本信男氏が社長を務める不動産会社。
【参考1】広島レストハウス
1929年、建築家・増田清の設計により、大阪に本店のあった★「大正屋呉服店」の店舗として中島本町(当時の町名)に建てられた。当時は3階までショーウィンドウを備えたモダンな雰囲気の店として市民に親しまれていたという。しかし、太平洋戦争勃発後に経済統制が強化された影響で1943年に閉店した。こののち建物は広島県燃料配給統制組合によって買い取られ、組合事務所として使用されることとなり、「燃料会館」と呼ばれた。原爆の直撃を浴びたにも関わらず、外郭は残ったそうです。それだけ耐災害性が高かった建物をだったと言えます。戦後もしばらくは燃料会館として使用されていたが、1957年には広島市に買収されて「東部復興事務所」となった。さらに1982年に改装されて市観光協会の事務所となり、「レストハウス」と名称を改め現在に至っている。建物内に創建当時の面影はほとんど残されていないが、地下室だけは★被爆当時のまま保存された。
【参考2】広島市「被爆70周年記念事業」
2015年の被爆70年に向けた広島市の記念事業の骨子案が分かった。力を入れるのは被爆の記憶の継承や平和を願う思いの発信力の強化。中区の平和記念公園にある被爆建物★レストハウスの改修や、被爆70年史の編さんなど計34事業を盛り込んだ。事業費やスケジュールを固め、来年2月に全体像を決定。一部は14年度から具体化する。爆心地の南西約170メートルに位置するレストハウスは鉄筋3階、地下1階。売店や休憩所を構える。1929年に呉服店が建て、被爆時は広島県燃料配給統制組合の事務所だった。戦後は市東部復興事務所などで活用され、82年からレストハウスに。市は被爆70年事業で外観を変えずに耐震補強、休憩スペースを改装する。被爆70年史は、被爆前の広島や復興の歩みを振り返る被爆者たちの証言や写真を掲載。写真集や、地域の原爆死没者慰霊行事を記録した冊子も発行する。被爆70年の8月6日の平和記念式典には、海外に住む被爆者を招待する。中区の市中央図書館と、南区の市現代美術館で特別展を開く。市は被爆70年を「平和への思いを共有する年」と位置付ける。今夏に記念事業のアイデアを公募。市民や職員から寄せられた219件の提案を踏まえ、事業の骨子案をまとめた。市は今後も随時、事業を追加する考え。市はこれらの記念事業とは別に被爆70年の取り組みとして「まちづくり先導事業」も計画。45年に迎える被爆100年の都市づくりを見据えたソフト、ハード両面の事業を14年度中に固める方針でいる。
・・・被爆70周年、広島にも行かなくちゃ。