・・・新年をむかえ「天王寺七坂」巡りで「安居神社」を紹介しました。
http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_2211.html
大坂夏の陣で真田幸村が★戦死したのが安居神社境内といわれています。慶長20年(1615)5月7日、天王寺口の茶臼山に布陣した幸村は、毛利勝永らとともに徳川幕府軍と大激戦を繰り広げます。一時は幸村や勝永らの獅子奮迅の戦いぶりに、幕府軍が大混乱になり徳川家康を窮地に追い込んだようです。しかし、大兵力の幕府軍相手にさすがの幸村も力尽き、安居神社境内の一本松の下で休息しているところを、松平忠直隊の武将に討ち取られました。享年49。神社には幸村の像と戦死跡の碑、そして幸村が休息していたといわれる2代目の一本松「さなだ松」があります。
・・・また、ずいぶん前になりますが「古市街道」巡りで、真田幸村が大坂夏の陣の道明寺★誉田の戦いの後に立ち寄り、戦勝祈願したとされる「志紀長吉神社」、そして「真田幸村休憩所跡の碑」も紹介しました。
http://www.shikinagayoshi-jinjya.org/
・・・ということで、やっぱり「三光神社」も掲載しなければと思うわけです。そこでJR「玉造駅」までやってきました。せっかくなので、「玉造界隈」を紹介していきたいと思います。
◆「玉造」 http://www.tama-tsukuri.info/
玉造の地名は、玉作部(たまつくりべ)が勾玉(まがたま)を製造していたことに由来し、そのことは『日本書紀』の仁賢(にんけん)天皇6年9月の条に「難波の玉作部」という一説が記載されています。
○かつて日本の首都/仁徳天皇が高津宮を、孝徳天皇が長柄豊碕宮を、聖武天皇が難波宮を造った場所です。
○戦国セレブの高級住宅地/豊臣時代、千利休や前田利家、細川忠興らの大名屋敷がずらり並ぶセレブの区域。庶民には住むことが許されないスペシャルゾーンだったのです。
○真田幸村が徳川軍に勝利した場所/戦国最後の大合戦、豊臣家と徳川家が激突する「大坂の陣」。真田幸村が活躍する「大坂冬の陣」は玉造にある真田山が主戦場。幸村は出城「真田丸」で徳川勢を迎え、見事に勝利します。玉造は勝負に強い町なのです。
○上方漫才の古里/戦前、演芸場が軒を並べ、たくさんのお笑い芸人らが住んでいました。上方漫才の父・秋田實(みのる)が生まれた町でもあります。
○名所がずらり/大阪城まで続くといわれている戦国時代の地下トンネルや、西日本最大のパイプオルガンがあるカトリック大聖堂、そして高さ11メートル、空に向かってそびえたつ大観音像など、びっくりが満載。
◆地下鉄「玉造駅」
1996年(平成8年)地下鉄長堀鶴見緑地線の駅が、同線の京橋駅 - 心斎橋駅間延伸に伴い開業する。駅のテーマは「勾玉」である。薄い紫とグレーを基調とした和風のデザインであり、コンコースの壁画は難波宮などをモチーフにした「過去から未来への時間の旅」となっている。ホーム壁面は和紙を思わせるデザイン。コンコースは、勾玉をデザインした方位盤を設置。
◆伏見橋旧跡
猫間川に流れ込む井路に架かっていた橋です。江戸時代から明治末まで井路を利用して荷物の運送などを行いました。戦前に建てられた旧碑は自動車事故で破損したので新しいものに建て替えられています。猫間川は大阪城東側を流れていて、大阪城の守りの要でもありました。現在は暗渠化されています。
★銭湯「玉造温泉」2014年11月24日をもって廃業
玉造といえば「玉造温泉」といわれるほど、大阪では有名な銭湯。70歳を過ぎたご主人が営業を日々続けるのがきつくなり、後継者もいないので廃業を決められたようです。「玉造温泉」は戦後まもなくスタート。オールナイト営業の銭湯として名前が広く知れわたり、さらにラドン、打たせ湯、寝風呂、サウナなども完備し、人気を集めました。地元はもちろん、遠方からも、また、ランナーたちが、荷物を預けて、大阪城公園まで走りに行き、ひと風呂浴びて帰るといった使い方もされていました。跡地にはマンションが建つようです。なにわ(浪花)ともあれ、34年間ご苦労さんでした。
・・・さて、「玉造稲荷」へ。途中、
◆白光大神
白蛇を神使としてお祀りされています。この木のある辺りは、もと玉造稲荷神社の境内だったようでその名残りだと思われますが、伐採されずにこの木だけが残されているというのには、やはり何らかの理由があったと考えられます。
・・・無粋な中央分離帯などよりずっとずっと文化的で、安心・安全のためにこれからも維持管理・存続させてほしいものです。