天王寺七坂(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「してんのうじ」さんにお参りしましたので、続いて「いくたま」さんにも行くことにしました。もちろん近くにある「たかつのみや」にも寄るつもりですが、どうせなら「天王寺七坂」を巡りたいと思います。



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★「谷町」は、西へ落ち込む上町台地の谷地形に由来する。1丁目から丁目は大手前の官公庁街に西隣し、司法書士事務所などが軒を連ね、丁目には大阪法務局と大阪府議会会館がある。丁目と丁目北部は谷町八丁目筋寺町と呼ばれる寺町で、西隣の中寺(生玉筋中寺町)にかけて寺院が多い。

・・・地下鉄「谷町9丁目」をあがると。もうそこは「お寺」です。本当に、行けども行けども「お寺」です。

如意山藤次寺

543-0071大阪市天王寺区生玉町1-606-6771-8144



真言坂

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000508.html

天王寺七坂の中では最も北に位置する坂です。現在では千日前通りから生國魂神社までの坂道ですが、自動車の幹線道路である千日前通りが出来るまでは、通りの反対側にある高津神社からつながる長い坂道でした。日本にはかつて神宮寺と言って、神社を運営したり支える役割を持ったお寺がありました。もちろん神道と仏教で宗派が異なりますが、神仏習合という日本独特の風習により、日本各地に多くの神宮寺がありました。ここ真言坂には、生國魂神社を支えるための神宮寺が多く並び、それは「生玉六坊」と呼ばれて、大変栄えていました。これらのお寺が全て真言宗のお寺であったことから、この坂は真言坂と呼ばれるようになりました。現在でも千日前通りからの一方通行道路で、車でも入ることが出来ます。道路は石畳になっており、坂の終点にある生國魂神社の門や常夜灯とともに歴史を感じさせる風景が残っています。この生國魂神社の常夜灯も大変古いもので、万延元年(1860年)の銘があるのを見ることが出来ます。



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【参考】「タニマチ」の語源

明治の初期に大阪市南区谷町(たにまち、現在の大阪市中央区谷町)七丁目で開業していた医者が大の相撲好きで、力士が診察に訪れた際に治療費を受け取らなかったことから来ている、という話が有名である。平成になって、この医師・萩谷義則(1847-1902年)の孫に当たる国文学者が名乗り出て、熱心な好角家の間で話題となった。

他にも谷町の大手の呉服問屋の主が相撲好きで、何かと力士を支援したからという話もあるが、この大阪市南区谷町で1887年に所得税を納税し、選挙権・被選挙権を有していたのは、萩谷義則ひとりであるという。

又、他にも1889年に谷町四丁目で薄病院を開業した薄恕一(1866-1956年)も、病院内に土俵を設けるほどの相撲好きで、幕下力士を無料で治療したり、小遣いを与え、「貧乏人は無料、生活できる人は薬代一日四銭、金持ちは二倍でも三倍でも払ってくれ」と言う方針を貫いたと伝えられている。

尚、かつて春場所において相撲部屋が多く谷町七丁目界隈に宿舎を構えたのは事実である。ただ、土俵が減ったこともあり、現在では大阪府内の堺市、東大阪市、岸和田市に宿舎を置く部屋や、貴乃花部屋が京都府、田子ノ浦部屋が和歌山県に置くなど、分散が進んでいる。

この語源説が出される以前、先に「タニマチ」という言葉があって後からこうした美談が創作されたと見る説もある。

実在のはっきりしている「タニマチ」として愛知県一宮市の森家がある。江戸時代から力士によくつかわれた膏薬「浅井万金膏」の販売元であり、昭和の半ば頃まで大相撲の力士の怪我の治療には何かと便宜をはかった。相撲協会でも、一時期国技館の升席を森家とその縁者のために無料開放して、この恩に報いていた。


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作家織田作之助の生誕100年を祝い2013年10月26日、生国魂神社(大阪市天王寺区)で新たな銅像がお披露目された。生國魂神社は作之助の生家の向かいにあり、彼の幼少時の遊び場であると同時に、作品に何度も登場する。銅像は1.3㍍の立像で、愛用のマントと帽子を身につけ、師と仰いだ井原西鶴の銅像に顔を向けている。愛好家らでつくるオダサク倶楽部の会員、石田英治さんが寄贈。

西鶴と生玉

https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/20_saika.html

生玉神社南坊址には現在、浮世草子の作者として有名な、大阪を代表する作家井原西鶴の像があります。江戸時代に生玉神社で活躍した人といえば、上方落語の祖と言われる米沢彦八がまず浮かびますが、大作家西鶴も、デビューの場として生國魂神社を選んだのでした。


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◆「生國魂神社

543-0071大阪市天王寺区生玉町13-906-6771-0002

http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_2174.html

神武東征に際し天皇みずから石山碕(現在の大阪城を含む一帯)に日本国土の御神霊、すなわち八十島神である生島大神・足島大神を祀られ、国土平安を祈請された事に始まる大阪最古にして日本総鎮守の神社。八十島祭に代表される宮中祭祀の神社として、延喜の御代には難波大社とも尊称された。天正13年(1585年)豊臣秀吉の大坂城築城により、現在地に遷座。爾来、本殿は幣殿とひとつの屋根で葺きおろし、その上につの破風を据えた他に類例のない「生國魂造」という建築様式を継承し、桃山時代の威風を現代に伝える。明治4年には逸早く官幣大社に列せられ、また、毎年月11日・12日には生玉・天満・住吉と続く、大阪三大夏祭りの魁「いくたま夏祭」が盛大に齋行される。



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川崎孫四郎自刃の所

生国魂神社の表参道の脇に石碑が2基建っている。『島 男也旧居』碑で1944年(昭和19年)の建立と『川崎孫四郎自刃の所』碑は1969年(昭和44年)の建立。「関西茨城県先賢士顕彰会」の立て札によると1860年(安政7年)3月3日の水戸浪士による大老井伊直弼殺害事件「桜田門外の変」と同時に大阪でも挙兵を図ろうとして未遂に終わった事件があったそうだ。高橋多一郎は水戸の藩士で「桜田門外の変」で首謀者の金子孫二郎とともに指導的な役割をつとめたが、高橋多一郎は大坂での決起を担当し、息子の荘左衛門や川崎孫四郎ら同志と共に3月6日に来坂、挙兵の準備にかかったが頼みの薩摩が大久保利通らの統制で慎重論に変わり立ち上がる様子がなく、そのうちに「桜田門外の変」の下手人狩りが始まり身動きが取れなくなった。江戸の事件の首謀者金子孫二郎は上方まで逃げて来ていたが伏見で捕まった。川崎孫四郎は大坂で自刃し島男也は捕われた後江戸送りとなり伝馬町の獄舎で死亡している。両人とも事件当時は犯罪者で後に「正5位」を贈位されている。


大阪骨董祭実行委員会072-823-2256

毎月日開催生國魂神社蚤の市

何でもありのお店が毎月25~30店出店しているアットホームな蚤の市です。毎月同じ日の同じ時同じ場所に来れば必ず遭遇できる市です。



・・・つい通り過ぎてしまいそうになるのですが、「いくたまさん」の参道沿いに「持明院」があります。