立体彫刻(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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靱公園(うつぼこうえん)大阪市西区靱本町

http://www.osakapark.osgf.or.jp/hfm_park/06utsubo/

四つ橋筋からなにわ筋を越えてあみだ池筋に至るまでの東西に細長い敷地を持つかつての靱塩干魚市場の跡地にあたる。海部堀川(第二次大戦後埋め立て)沿いの靱塩干魚市場は干物や肥料にする干鰯などの海産物を全国から集めていたが、1931年の大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖され、大阪大空襲で廃墟となった。戦後、約3万坪が占領軍に接収され、占領軍の常用飛行場、靱飛行場となった。1952年の講和条約発効をもって大阪市に返還され、靱公園として整備された。東西に細長い形をしているのは滑走路跡地であることによる。大きな木が多数植わっており、都会のオアシスである。また、公園西側の大部分を占める靱テニスセンターでは、世界スーパージュニアテニス選手権大会など国際的な大会も行われている。かつては靱蹴球場というサッカー専用グラウンドがあったが、テニスコートの拡大に伴い、現在は閉鎖されている。公園周辺は、1990年代後半から衣料店やカフェ、レストラン、パン屋や洋菓子店などが目立つようになり、ファッショナブルな街へと変貌する途上にある。公園東部では、公園が街路ではなく直接京町堀通り南側ビル群の裏側に接しているため公園に直接面したカフェやバーが出店したり、ばら園では屋外結婚式が行われるなど、大都会ならではの雰囲気となっている。靱公園の中央、なにわ筋沿いに楠永神社があり、大きなクスノキが目立つ。ここは古くからの神社でかつて海部堀川が横を流れており、靱市場の数少ない名残である。クスノキは戦後、飛行場建設の際に伐採されようとしたが、けが人やブルドーザーの故障が相次いだ。お祓いの際に神社の建物から白い蛇が出てきたことから「この木は神木なので切ってはいけない」という話になり今に残っている。2007年頃まで公園内の管理不十分であったが、最近では整備が行き届いている。公園内に作家・梶井基次郎の文学碑がある(1981年(昭和56年)に建立)。



うつ1



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2014.1014日~11月3日45周年記念花と彫刻

1968年に結成された大阪彫刻家会議は、都市環境の文化に彩を添えるために、毎秋、うつぼ公園で「花と彫刻」展を開催している。緑のアーバンオアシスの中に存在する彫刻の彩から、あなたは何かを感じることができるだろう。そこには近代彫刻がもつ流れと、現代美術が内包している諸問題を、発見することが出来るはずである。平成19年からは、長居公園・植物園で「バラと彫刻展」毎年開催している。

【事務局】590-0503泉南市新家2787-169生島豊昭方072-482-0986


うつ3


・・・歴代のエライさんを紹介しておきます。


浅野孟府】(1900~1984

明治331900)年1月4日東京都に生まれる。本名猛夫。大正7年東京美術学校彫刻科に入学し塑造を学ぶ。北村西望に師事。在学中の同9年9月第1回未来派美術協会展に出品、同11年第9回日本美術院展に石膏像「頭」を出品する。同年10月神原泰らとアクションを結成。同12年第10回二科展に「肖像」、翌13年同展に「顔」を出品し、まだ出品数の少なかった二科展彫刻部の草創期に名をつらねる。同13年、アクション、未来派、マヴォなどが合同して三科造型美術協会を結成。同15年第1回聖徳太子奉讃美術展に「造型彫刻立像」「造型彫刻顔」を出品、受賞する。昭和2年、東京美術学校を中退。同3年第1回プロレタリア美術展に「レーニン像」、同5年同展に「習作」を出品する。同5年大阪へ移住し、翌年大阪プロレタリア美術研究所を設立。同12年陶芸研究のため野崎村に窯を開き移住する。同15年徴用されて、松下飛行機工場、東宝映画に勤務する。戦後、二科会の再編に参加して会員となるが、同30年野間仁根、鈴木信太郎らによる一陽会に創立会員として参加し、植木力とともに彫刻部の指導的立場にあって出品を続ける。同45年、ギリシア旅行。同47年1972大阪彫刻家会議初代会長となる。同48年大阪芸術賞を受賞。肖像彫刻ではモニュメンタリティを加えつつ写実的作風を示したが、自由な制作においては写実にとらわれず、対象の形を簡略化、理想化した。初期作品にはアーキペンコの影響が強く見られる。



うつ4


今村輝久】(1918~2004

1918 大阪市に生まれる

1942 東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科卒業

1953 全関西美術展、大阪市立美術館、審査委員就任

1958 京都成安女子短期大学美術科非常勤講師に就任

1962-71 ISPAAイスパア国際造形芸術協会を結成し出品

1966 夙川学院短期大学美術科教授に就任

1967 大阪在住彫刻家の数名により彫刻を美術館から開放して野外に並べ、市民に彫刻の理解を高め野外空間での彫刻のありかたを考える研究会を作る。

1968 大阪彫刻家会議を結成

1969 第1回花と彫刻展、大阪市靭公園/大阪彫刻家会議主催に題名のないモニュメントを出品する。

1984 京都精華大学非常勤講師に就任

1986 大阪市南港緑道コンペ 白鳥のモニューメントの選考委員

1987 宝塚造形芸術大学(現・宝塚大学)教授に就任

1988 大阪市中之島緑道彫刻コンペの選考委員


うつ5


・・・公園のあちらこちらに作品が設置されていますので、見つけられない作品もあったりします。

・・・「靱公園」と言えば「テニス」、そして「花と彫刻」展です。