大学ミュージアム(39) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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京都・大学ミュージアム連携

京都市内の14大学にある15の大学ミュージアムが連携をして、さまざまな企画を進めてゆくことを目的として、2011年に発足しました。京都は、「大学のまち」といわれるほどに、数多くの大学が、市の内外にあります。しかし、京都の大学の多くが、美術館、博物館、資料館といった施設(ミュージアム)をもっていること、そして、その施設では、教材や研究資料として蓄積されてきたさまざまな美術品、歴史資料など、つまり、文化遺産の数々を収蔵し、その収蔵品を展覧会というかたちで公開していることは、あまり知られていないかもしれません。京都・大学ミュージアム連携は、ミュージアムを有する京都の大学が連携協力して相互の活性化につとめるとともに、各ミュージアムの収蔵資料や展覧会活動を通して、京都市の観光振興、地域活性化をすすめることを目的として、2011年度文化庁助成「文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」に採択された「京都のミュージアム活性化プロジェクト」の一環として設置されました。その後、合同展覧会やスタンプラリー、さらには、九州の4大学との合同展覧会など、地域の枠を超えて活動を続けています。各大学ミュージアムの収蔵資料はその大学の特色、個性あるいは成り立ちを反映するものですから、それぞれ固有の教育研究上の役割があることは言うまでもありませんが、文化遺産として考えれば、ひろく多くの人びとに楽しんでいただけるものであり、また、多くの教育研究の場で活用ができるものであるはずです。このような考えのもと、「京都・大学ミュージアム連携」は、2014年3月30日に包括協定を締結して、2014年度より新たなスタートをきりました。

http://univ-museum-kyoto.com/

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・・・「花園大学」は、ミュージアム連携にまだ加盟されていませんが、


◆花園大学

604-8456京都市中京区西ノ京壺ノ内町8-1075-811-5181

花園大学は妙心寺山内に、今から140年前の明治5年、明治維新にふさわしい子弟と新しい教育のために創建された般若林に始まった、臨済禅のこころを建学の精神とする学校です。その妙心寺は、本学の設立母体である臨済宗妙心寺派の大本山です。


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その開創は第95代の天皇、そして22歳で上皇となられた花園法皇が、ご自身の花園離宮を改めて禅寺となされたのに始まります。当時は鎌倉幕府が滅び室町幕府が起こる動乱期、いわゆる南北朝時代で、法皇は世相の混乱と人心の荒廃を深く憂えられ、仏教特に禅の道を大徳寺の開山大灯国師について学ばれます。そして、世の平安を願って禅寺開創を発願し、大灯国師のお指図の通り、開山を関山慧玄禅師、名を正法山妙心寺として1342年建立されました。以来600有余年、「報恩謝徳」、法皇の御こころざしは今日に至るまで綿々として伝わっております。明治5年に創立された「般若林」は、明治36年に花園学林と名を変えて現在に至っているのです。大学名「花園」はこの花園法皇の御こころざしを受け継いでいるのです。本学の理念は禅仏教の教えによる人格の陶冶を目的としています。臨済宗の宗祖臨済禅師が「無依の道人(むえのどうじん)」と言われるように、依るべきものをもたず、何ら外的条件に左右されない自立する力を涵養することを旨としています。それは難しいことではありません。一人の人間として自分の目で見、自分の耳で聞いて、自分のハダで感じて、自分の頭で考え、自分の手足で行動する。そのことなのです。


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歴史博物館

2000年(平成12年)、かねてより待望されていた歴史博物館が本学に創設されました。本学の調査・研究活動によって蓄積された資料を広く公開し、大学教育および市民の皆さんの生涯学習に役立てることを目的としています。これからの大学の教育・研究活動は、広く社会に向かって貢献できるものでなくてはなりません。花園大学歴史博物館は、こうした「開かれた大学」の中核施設として、今後もさまざまな事業を行っていきたいと考えています。

滅却心頭火自涼―甲斐の名刹・恵林寺の至宝―

2014年10月6日(月)~12月13日(土)

安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し。中世における傑僧・快川紹喜(?~1582)の遺偈として、快川の名とともに広く知られています。その舞台となったのが、甲斐の名刹・乾徳山恵林寺(山梨県甲州市、臨済宗妙心寺派)。天正10年(1582年)、恵林寺は織田信長軍勢の焼き討ちに遭い、時の住持であった快川は、燃え上がる三門楼上でこの遺偈を唱え火定を遂げました。恵林寺の歴史は古く、鎌倉時代にまで遡ります。元徳2年(1330)、二階堂貞藤(道蘊、1267~1335)が夢窓疎石(1275~1351)を招請して開創しました。以来、日本禅宗史にその名を連ねる数多くの禅僧によって恵林寺の法灯が嗣がれ、同時に、恵林寺はその宗風を慕う外護者を迎えることによってさらなる発展をみます。ことに、戦国期には武将・武田信玄(1521~73)、近世に至っては柳沢吉保(1658~1714)・吉里(1687~1745)父子の庇護を受け、信玄・吉保の菩提寺として興隆しました。
恵林寺は戦国期と明治期に主要伽藍を焼失する災禍に遭いますが、14世紀に遡る開創期からの歴史を今日に伝える寺宝が守り伝えられています。さらに、信玄を顕彰する人々や柳沢家から、信玄・吉保らゆかりの品々が奉納されてきました。この度、公益財団法人 禅文化研究所と共同で、恵林寺に蔵される絵画・書跡資料の悉皆調査を行い、これまでに紹介されていない中世絵画資料等を見いだすことができました。本展覧会は、恵林寺の文化財がまとまって寺外にて公開される初めての展観です。650年を越える恵林寺の歴史を振り返るとともに、その長い歴史のなかで蓄積された多彩な文化財を新発見資料とともにご紹介します。


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・・・奈良県平群町の「上山2号墳」の石棺が移築保存されていました。


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・・・続いて「京都外大」へ。