三度目の正直(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・さて「石清水八幡宮」における「うつ神楽」で学んだことは、「気配」という「感性」についてでした。実際のところ、演じられた空間は神社建築のため多くの柱が林立し、神楽舞を「視覚」として捕らえることが非常に困難な状況にありました。また、そういう状況のため、他の参拝者たちの苛立ちやざわつきなども、ひしひしと伝わってきました。だからかえって、全身の感覚を研ぎ澄まし「気配」を感じ採ろうとする私がありました。この境内における「非日常的」空間が、五感を越えた「感性」を蘇らせてくれたような、そんな「アリガタイ」気持ちでゆっくり、ゆっくりと下山しました。アリガトウゴザイマシタ


かぐ1


・・・このような「学び」に至ったのは、八幡宮へ参拝するまでの私の行動に要因があったと考えています。後先逆になりましたが、当日の朝からの行動について報告したいと思います。



かぐ2


・・・次の日、さっそく新聞に掲載されていましたね。


かぐ3


・・・当日の朝、京阪「樟葉」で各駅停車に乗り換え「橋本駅」下車。

古くは地名通り淀川にかかる橋(山崎橋)のたもとで、橋が失われてからは1962年(昭和37年)まで山崎との間に渡船があった。このため正式な宿ではないが大坂(京)街道の宿場として賑わい、歌舞伎『双蝶々曲輪日記』の六段目「橋本の段」の舞台になった遊郭街となっていた。1958年(昭和33年)4月1日の売春防止法が施行されるまでは橋本駅を出発する終電車が「遊郭帰りの客で大変込んでいた」との逸話もある。駅西側には当時をしのばせる古い家並みが残る。現在駅東側は山を切り崩した住宅街になっている。京阪電気鉄道の開発が入るまでは完全な山であり、石清水八幡宮の西側まで延々と獣道が続いていたが、麓の遊郭での諍いから遊女の自殺が絶えない地域でもあった。駅から東へ登ると、氏神の狩尾神社がある。


・・・「淀川」沿いの旧国道1号線を自動車で走りながら、この「橋本」の街並みの素晴らしさに感動し、ぜひ一度ゆっくりと歩いてみたいと思っていたのです。


かぐ4


・・・駅から、まず「淀川」をめざします。

かぐ5


橋本の由来

神亀2年(725)対岸の山崎と結ぶ橋を行基が此処に架けたと伝えられており、その橋のたもとの町が「橋本」と呼ばれたことによる。その橋も度々洪水で流された。嘉祥3年(850)にも橋の記録があるが、11世紀に一旦廃絶。豊臣政櫓下で一時復活された。その後失われてからは現在まで再建されていない。後、代わって渡し船が出来た。場所としては、木津川と宇治川の合流点から淀川となる所から少し下がった所で、橋本・中ノ町と島本町・高浜を結んでいた。渡し船は、西国街道から石清水八幡宮へ参詣する人や、又、京都・伏見・八幡から長岡天神や柳谷観音寺へ参詣する人などで賑わった。勿論。物資の輸送も行われ、荷物、馬、牛も運ばれた。因みに、江戸期の運賃は、淀川の水嵩で決められ、通常の水位では人3文、牛馬10文・3尺~5尺(1尺=約30cm)では、人12文、牛馬30文・6尺以上になると人30文、牛馬50文となったが、6尺以上の時は中止かその時の水位で決める時もあった。何れにしても牛馬、人、荷物を乗せていたので、相当大きな船であったろう。こうした歴史を刻んだ渡しも昭和39年(1964)その姿を消した。

「橋本樋門」「小金川樋門」

八幡市を流れる大谷川(放生川)は、この樋門を通って淀川本流と合流します。この樋門は昔も今八幡市を水害から守る重要な施設で