・・・「男山山上駅」から薄暗い参道を5分ほども歩けば、「三ノ鳥居」そして「南総門」が見えてきます。参道を照らす石灯籠の明かりが「幽玄」の世界へと導きます。
※「男山」は昔、「雄徳山」もしくは「香呂山」と呼ばれていたようです。「おとく」が、時代とともに「おとこ」と変化したのではと思います。
【参考】谷崎潤一郎の小説の舞台となった男山
碑の序幕は、昭和61年(1986年)7月24日、谷崎潤一郎生誕100年に行われました。谷崎潤一郎は、関東大震災を契機に関西に引っ越し、その風土と伝統文化に魅せられて、純日本的、古典的なものを主題とする作品を多数発表したそうです。碑文には、蘆刈抄の一文が刻まれています。碑文の字は、昭和8年に刊行された潤一郎自筆本によるものだそうです。
※碑文/わたしの乗った船が洲へ漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして全山の木々の繁みがびろうどのやうな津やをふくみ、まだどこやら夕ばえの色が残ってる中空に暗く濃く黒ずみわたってゐた
【参考】石燈籠
かつて男山には48もの坊がありました。しかし、今では石清水八幡宮参道の石垣に、その痕跡を見るにとどめています。嘉永元年(1848)刊行の男山考古録には59の坊が出てきますが、ある時代に、これがすべて存在したということではなく、全盛期で50近く、これが火災や廃絶などによって減ったり増えたりしていました。江戸時代中期の地図に描かれた「八幡山上山下惣絵図」には43の坊を見ることができるように、だいたい40前後が常に男山にあったようです。では、なぜ「男山四十八坊」というのかというと、「相撲48手」「いろは48」というように、仏教に由来する数字だったようです。その坊も明治初年の廃仏毀釈直前には23の坊になっていました。男山四十八坊は参道の石垣にその面影を見ることができますが、もうひとつ、本殿前の参道に並ぶ石燈籠にも往時を偲ぶことができます。燈籠の竿の部分に「宿坊○○坊」と刻まれたのを見かけます。この「宿坊」というのは、遠くから石清水八幡宮を参拝された旅人を泊める宿泊施設をもった坊でした。この宿泊費を坊の維持費に充てていたようです。
★石清水八幡宮
614-8588京都府八幡市八幡高坊30/075-981-3001
旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の一社で、伊勢神宮とともに二所宗廟の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宇佐神宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一社、また宮中の四方拝で遥拝される一社である。貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。「石清水」の社名は、男山に既に鎮座していた石清水山寺(現・摂社石清水社)によるといわれる。天皇家からは遠国の宇佐神宮に代わり二所宗廟の1つとして崇敬されるとともに、京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視された。武家からは特に源氏が武神として信仰し、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された。創建以来、当社は境内の護国寺と一体になる宮寺形式をとった。往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、その様子は山麓社殿を八幡宮と勘違いしたという『徒然草』の話で知られる。その後、明治維新の神仏分離において仏式は排除された。仏式で行われていた放生会もまたその際に「石清水祭」と名を変えたが、現在も同祭は大祭として葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の1つに数えられる。境内は国の史跡に指定されており、大きく分けて本宮のある山上の上院と、頓宮や高良神社のある山麓の下院とから成る。また、本殿をはじめ建造物16棟等は国重要文化財に指定されている。
【参考】『徒然草』第52段「仁和寺にある法師」
仁和寺の老僧は「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」と思っていた。ついに石清水八幡宮へ行ったが、麓の高良社や極楽寺を石清水だと思い込んで、そこのみ参拝し、他の人が山を登っていたのに、自分は登らなかったという話。「小さなことにも案内人が必要」という話で、よく中学校の教材とされる。この逸話は、男山の山頂の石清水八幡宮の本殿のほかに、麓の摂末社も相当に壮大な造りだったことを示す。
※下院(山麓)
山麓には主要社殿として頓宮が鎮座する。この頓宮は祭事における神輿の待機所で、他の神社での御旅所に相当する。頓宮脇に立つ五輪塔(通称・航海記念塔)は高さ6メートルの塔で、国の重要文化財に指定されている。境内入り口に立つ一の鳥居は、八幡鳥居の形式である。銅製の額「八幡宮」は、一条天皇の勅により藤原行成が書いたものを松花堂昭乗が元和5年(1619年)に書写し、打ち出したものとされる。「八」の字は、向かい合った二羽の鳩が顔を外に向けた形に作られている。
・・・「南惣門」前で予約確認のうえ整理券が配布され、公演のしおりなどをいただいて本殿西側で待機します。
★神楽 http://www.tohoku21.net/kagura/history/kigen.html
神楽とは、広辞苑によれば「神座」が転じたものとされています。かむくら、かんぐら、かぐらと変化していったというのが語源の定説です。また、この場合の神座は、一つの場所そのものをさすのではなく、神座における所作全般を意味しているようです。日本の信仰の始まりは、縄文時代まで遡り、今に残る数多くの縄文時代の遺物からも、自然崇拝や呪術を重視していた古の暮らしを垣間見ることができます。自然崇拝からの流れを汲み、神が自然や事物に降臨し、鎮座するという観念が明確になってくると、神が降臨した際に身を宿す「依り代」としての巨石や樹木、そして太陽が昇り、沈む聖域である高い峰を祭祀の対象物とし、やがて、人の手が加えられた神座が設けられるようになっていきます。こうして神座に、神を迎え、祈祷の祭祀を行います。祈祷は、人々の長寿、豊穣な実り、また、災難を追い払うことなどが目的とされていたようです。
文献に、初めて芸能について書かれたものが登場するのは、「古事記」や「日本書紀」に書かれた「岩戸隠れの段」という神話です。アメノウズメノミコトという女の神様が、天の岩屋の前で足を踏み鳴らして踊り、アマテラスオオミカミが天の岩屋から出るきっかけを作ったというもので、この天鈿女命の踊りは、神楽を含む後世の様々な芸能の起こりと結び付けて語られています。「神楽」という名が文献に登場するのは、最古のものとしては、「万葉集(759年頃)」ですが、万葉集が編纂された頃は、まだ宮廷の神楽は形が整ってはいなかったようです。ここでは、鎮魂祭などの鈴の音を指しているものと考えられています。「古語拾遺(807年)」では、サルメノキミの仕事は神楽の事という記述があります。猨女君は天鈿女命の子孫であり、鎮魂を司っていたので、ここに出てくる神楽も、鎮魂祭を指しているものとされています。古語拾遺から半世紀ほど経て、貞観年間に編纂された「儀式」の中に、「祭儀が終了したに、歌舞を伴った神楽を行った」という記述があり、祭りを終えた後の神涼しめの遊びとされています。「楽」は、鎮魂を意味する古語である「アソビ」という読みもあり、中世には芸能を意味する語としても使われていました。神楽は、現在、日本全国で伝承されており、宮中で行われる「御神楽」と、民間で行う「里神楽」の2種類に大別することができますが、里神楽は、巫女、神主、山伏といった人々によって伝承されてきました。里神楽の種類は、本田安治の分類によれば、それぞれの特色に従って、①巫女の神楽、②出雲流の神楽、③伊勢流の神楽、④山伏神楽・番楽と太神楽を含む獅子神楽、⑤奉納神事舞の5つに分けられます。これらの神楽は、各種各様ですが、一貫した特色としては、必ず神座を設け、神々の招請をもって執り行うことが挙げられます。古来の祭祀文化を伝えるもの。畏敬や感謝を込めた祈りの表現。そして、人々を笑顔へと導く娯楽として。神楽の目的は様々ですが、私たちの暮らしに寄り添ってきたものだと言えるでしょう。
★百鬼ゆめひな
等身大人形を巧みに遣いながら、同時に遣い手自身も面を付け、変幻自在に舞台に加わるという、他に類を見ない舞台表現を創作し演じる。その摩訶不思議な演舞は音楽、所作、舞のみによって構成され、主に和の耽美的な世界が展開される。97年、主宰・岡本芳一の「百鬼どんどろ」に入団。等身大人形を遣った斬新で強烈な舞台表現に魅了され、人形遣いを志す。どんどろはヨーロッパを中心とした海外での上演が圧倒的に多く、団員として随時同行し、各国の多くの舞台を見て創作表現について学ぶ。岡本と共に作品作りにも関わり、等身大人形の製作も積極的に学ぶ。98年初舞台。00年フランス・イタリア・ギリシャの各フェスティバルでオフプログラムながら初の海外上演。01年「夢人形ひいな」を旗揚げし、独自の世界を表現する事に挑戦。その後も作品を発表し続け全国各地で数多く公演をする。06年どんどろから独立。08年人形製作・操演以外に作劇・演出を担当し新境地を切り開く。東京で初の自主公演を行う。09年独立後の最初の作品はドイツのフェスにて【陽気だが敬意に満ち、この世の裏側にある世界もほのめかしている。そしてその世界から希望やエネルギーが沸き、私たちに降り注ぐ。】と高く評価される。2010年師匠、岡本芳一の没後、屋号を「百鬼ゆめひな」と改める。人形演劇祭“inochi”(東京・調布市せんがわ劇場)、いいだ人形劇フェスタ、昼神温泉「石苔亭いしだ」能舞台にてレギュラー上演、テーマパーク、TV・映画出演など、活躍の場を拡げている。13年2月には初の米国公演(国際交流基金ニューヨーク日本文化センターより招聘)、3月はトルコ公演(イズミール国際人形劇祭より招聘)と、海外にも活躍の場を広げている。