大学ミュージアム(28) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・大阪「大学ミュージアム」巡りは、残すところ3つになりました。スタンプラリーの期限は11月末までですから、今日は「高槻市」までやってきました。


つき1


・・・「大阪医科大学」は「高槻市駅」のすぐ横、地下鉄「堺筋線」から阪急「京都線」へと乗り継げるので便利です。


大阪医科大学 http://www.osaka-med.ac.jp/index.html

569-8686大阪府高槻市大学町2-7072-683-1221

1927年(昭和2)に、日本で最初の5年制医学専門学校「大阪高等医学専門学校」として創立され、1929年に「附属看護婦学校」が設置されました。2007年には創立80年を迎え、創立より数え約4000名の看護婦・看護師と約9000名もの医師を輩出してきました。この度2010年4月より新たに看護学部を開設し、名実ともに関西を代表する、医看融合の医療系大学の地位を確固たるものにしています。



つき2


初代校長には足立文太郎先生(解剖学)が就任し、良医養成を使命として“懸命不動”の精神を学生に説かれたのです。理事長に吉津度、理事には太田光熈(京阪電鉄社長)、松島寛三郎(京阪電鉄取締役)が就任。教授陣は京都大学や大阪大学を中心とした新進気鋭の学者を迎え、我が国でも有数の医学教育環境が整備されてきました。設立当初より医学と看護の両輪での医療教育をめざし、その後「附属看護婦学校」は1982年に認可された「大阪医科大学附属看護専門学校3年課程(全日制)」の前身として、看護基礎教育の基盤を固めました。「大阪高等医学専門学校」は当初、大阪市東淀川区下新庄の仮校舎からはじまりました。その後1930年には現在の地である高槻市大学町に大学本館をはじめ学舎群や附属病院が竣工しました。これにより名実ともに医学の最高学府としての地位を確立したのです。これらの建築はヴォーリズの設計によるもので、サラセン様式のアーチやアラベスク装飾などを施した個性的な意匠が、当時の人々の目を惹きました。この竣工当時「別館」と称されていた建物は「附属看護専門学校」の校舎として利用され、2003年に高槻市では初めて、国の有形文化財として登録されています。現在復元改修し、内部に「歴史資料館」を設置して公開しています。この「歴史資料館別館」は、当時の日本建築の中でも最先端のモダンな学舎群の中のひとつで、そして最高の医学教育環境の整備が、本学の「自由な学風」誕生に大いに貢献したのです。その後1932年に第二代校長として戸田正三先生(衛生学)が就任。戸田先生の豪放磊落な人柄は今なお多くの卒業生の記憶に残るところで、戸田先生がモットーとされた“身康則神明”は足立先生の“懸命不動”とともに、学生座右の銘として永久に残るものとなっています。そして第二次大戦終戦の翌年には旧制大学令による7年制大阪医科大学の設置が認可され、先ず予科が発足。初代学長に松本信一先生(皮膚泌尿器科学)が就任されました。その後1952年には新制度の大阪医科大学の設置が認可されました。1959年に大学院医学研究科を設置、そして1965年には医学進学過課程の設置が認可されました。


つき3


キャンパス面積も1968年の京都大学化学研究所跡地の等価交換により倍の広さとなりました。2005年には「新講義実習棟」が竣工され、臨床力育成に着眼した新カリキュラム編成に相応しいハードウェアの充実を図っています。2001年には、看護基礎教育をより一層充実するため本部北キャンパスを取得し、2005年には、4年制の看護基礎教育に耐える校舎を建築し、さらに2010年には看護学部研究棟を建築して、「2007年教育環境からみた大学ランキング」において数少ない「AAA」評価を得ている医学部と並んで看護学部が設置されました。大阪医科大学は、医療従事者としての自覚と誇りを常に持ち、社会貢献を使命と考える“強い医師”“自立した看護職者”育成のため、これからも最高の医学・看護基礎教育環境で応えます。


つき4


◆【大阪医科大学歴史資料館】◆072-684-6738

http://www.osaka-med.ac.jp/deps/trad/index.html

大阪医科大学歴史資料館は、登録有形文化財である別館を保存するとともに、学校法人大阪医科大学の前身である財団法人大阪高等医学専門学校の設立理念の根底にあるものを顕彰し、医学・医療の在り方や法人の設置する教育施設の使命を時宜に応じて検討する場を提供することを使命として平成18年6月1日に別館に設置されました。歴史資料館では、各種展示を行うとともに資料の収集・整理を行います。私たちの理念にある「国際的視野」に立てばいかなる地域にも密着できることが重要であると認識し、当館ではこの地域での公開型の教育施設として、より多くの方々にご利用いただきたいと考えています。本学は昭和2年に開校し、昭和5年に竣工した学舎群は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880年米国カンザス州で生まれ、1941年日本帰化、1964年永眠)により設計されたものです。その後、学舎の建替えが進められ、創立当時の建物は「別館」を残すのみとなりました。この「別館」がイスラム様式のアーチやアラベスク装飾などを用いた個性的な意匠と地域の歴史的建築であることが評価され、平成15年7月1日に高槻市内では初めて国の有形文化財に登録されました。


つき5


2007年に修復され、再生された『別館』は大阪高等医学専門学校が当地で開校されて間もない昭和3年(1928年)に講堂として建てられたものです。『別館』は時計台を備えていた本館(昭和4年)、解剖館(昭和4年)とともにヴォーリズ建築事務所による原案を基に建てられました。ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)は大正昭和初期を通じて日本で活躍した米国人建築家で、代表的な建築には赤煉瓦の大阪教会、著名なミッションスクールの建築や、心斎橋の大丸百貨店などを残しています。またヴォーリズはメンソレータムで知られた近江兄弟社の事業や詩人としての活躍など、幅広いユニークな活動が知られています。本建物の特色は階段教室と講堂を3階建て箱型の建物にまとめた合理的な計画と、インドサラセン様式?の装飾を付した個性豊かな意匠にあります。ヴォーリズは医学教育機関のこの校舎の設計にあたり古代医学の源といわれるインドにヒントを得たのかもしれません。ところで本格的なインドの建築は石造による華麗な様式で知られていますが、この建築は優しい壁仕上げと部分的なタイル張りの表現にヴォーリズの建築の特色がみられます。建築より78年を迎えた2006年に着手された修復工事は詳細な調査に基く意匠の復原と活用に対応する整備がなされた近代建築再生の適例として注目されるものです。


・・・各地で「ヴォーリズ建築」が注目され、保存・再生されているので、それにならって「残そう」という気運が高まっているのでしょう。そういう意味で有名な建築家に設計してもらうと、結果として「残る」ことになるわけですね。