・・・またまた佛教大学・劇団「紫」の案内をいただきました。今回は学園祭での公演ということなので、地下鉄「北大路駅」から大学まで歩いていくことにしました。駅を上りますと、目の前が「大谷大学」です。残念ながら、今日の目的地ではないので、またの機会にしたいと思います。
【参考】大谷大学博物館/603-8143京都市北区小山上総町
博物館は、近代化100周年記念事業の一環として建設された真宗総合学術センター響流館の1階に位置しています。博物館の設置構想は、本学図書館が収蔵していた貴重資料および考古遺物や民俗資料などの文物を含む多様な資料の適切な保管と調査研究、1987年に開設された博物館学課程の充実化、生涯学習など社会的要請への対応などを目的に策定されました。そして、2003年10月、図書館所蔵の貴重資料を中心に、歴史学科などに保管されていた資料を収蔵品とする博物館が開館しました。
※響流館(こうるかん)2001(平成13)年に真宗総合学術センターとして竣工。図書館、博物館、総合研究室、真宗総合研究所、メディアホール、ギャラリー等から構成された教育、学術研究の総合拠点。教育研究支援部(教育研究支援課、図書・博物館課)の事務室がある。
【参考】立命館小学校 http://www.ritsumei.ac.jp/primary/
603-8141京都市北区小山西上総町22番地/075-496-7777
立命館学園は2つの大学、4つの高等学校、4つの中学校、そして1つの小学校(2006年開校)を有し、それぞれの附属校が大学と連携しながら特色ある教育を展開しています。立命館小学校にしかない高度な教育を実践するため、充実した教育設備・環境を整えています。普通教室をはじめ、理科室、図画工作室、音楽室、家庭科室などの特別教室はいずれも、独自の教育カリキュラムに連動したさまざまな機能を備えています。そのほか「陶芸の部屋」「ロボットの部屋」「博士の部屋」「コミュニケーションルーム」「伝統文化室」といった特色ある施設を設け、個性あふれる教育に活用しています。また校舎全体をバリアフリー化するとともに、最先端のセキュリティシステムを導入。だれもが安全に安心して学べるように心を配っています。
●陶芸の部屋/各学年の「図画工作科」の陶芸教育で使われる教室です。専門教員の指導のもと、1年生から本格的な作品の制作に取り組みます。
●伝統文化室/本格的な茶室を2室設置しています。児童が伝統文化の体験を通じて礼儀作法を習得する場として、また「立命科(茶道)」の学びの場としても活用しています。
●アクトシアター/本格的な音響・映像設備を備えたホール。児童が発表するだけでなく、「本物の芸術にふれる場」として、さまざまな舞台の鑑賞会に活用しています。
【参考】紫明商店会 http://www.kics.gr.jp/kita/simei/
昭和62年に「緑と憩いのあるヘルシータウンの創造」をテーマに紫明商店会が発足。平成6年には法人化し環境整備、街づくり策定事業に積極的に取り組む。大型店の出店に対応するため平成8年度にはカラー舗装や観光案内板の整備に着手、地域の人々はもちろんのこと観光客に親しんでもらえるようコミュニティー性を重視している。平成24年6月1日より商店会の組織に戻る。
・・・美しい教会があったので、念のため写真撮影をしておきました。帰ってから調べますと、なんとヴォーリズ建築ではありませんか。
◆日本聖公会「京都復活教会」
603-8165 京都市北区紫野西御所田町63/075-441-6468
京都市の北大路通堀川。道の角に、日本聖公会京都復活教会の白い洋風の塔が立つ。建築家で伝道師のウイリアム・ヴォーリズが設計、1937(昭和12)年に完成した。礼拝堂の正面の丸いステンドグラスはキリストの姿、側面の縦長窓1枚1枚には青や赤などの十字架が多様な形で浮かび上がる。当時の牧師モリス宣教師が米国から請来した。長い時を経た大きな梁、彩り豊かなガラス、かっちりとした木の長いすが落ち着いた雰囲気を生む。教会は、西陣の伝道所「弘道館」として生まれ、地域を転々としてここに至った。弘道館時代を知る高橋治一さんは、今も西陣で機織り材料の店を営む。若いころは教会の日曜学校の先生もした。「西陣の真ん中の千両ケ辻辺りで布教し続けたのは、貧しい職人や恵まれない子供の支えになりたいと願ったからのようです」モリス宣教師は教会に看護婦を雇って地域の保健指導を進め、付属幼稚園で2、3歳児保育もした。地域の体の弱い子が自然の中で体を鍛えられるよう毎夏数十人をキャンプに引率した。現礼拝堂が完成して2年後、約9240平方メートルのキャンプ場を大津市北小松の琵琶湖畔に購入、地域の子三、四十人を9泊10日の野営に招くなどした。戦時色強まる中、米国人宣教師は帰国。日本人牧師らが志を継ぐ。キャンプ参加者、幼稚園の卒園児、日曜学校の生徒…。戦後は、青年信者らが演劇「青銅の基督(キリスト)」や合唱など文化活動を展開、牧師の道へ進む学生も相次いだ。夏休み、今年もキリスト教を超えて多くの団体がキャンプ場を利用する。交代で世話をする信者の心に「神の光を地域に」の思いが生きる。
・・・近くに「島津製作所」もあるはずなので、とにかく見に行きました。
◆(株)島津製作所・紫野工場
603-8165京都市北区紫野西御所田町1/075-431-3186
※「創業記念資料館」(国の指定文化財)京都市中京区木屋町二条南
http://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/
当社創業100周年を迎えた1975年、日本の科学技術研究の一助になればとの願いを込めて開設したものです。科学立国の理想に燃えて、理化学器械製造の業を興した島津源蔵を偲び、当社創業の地である京都・木屋町二条に設立されました。創業当初の理化学機器、初期の医療用X線装置をはじめ、我が国の科学技術史研究上、きわめて貴重な文献・資料約600点を一般公開しています。1999年12月、国の登録有形文化財に指定され、2007年11月には我が国の産業近代化に大きく貢献したとして、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されています。
・・・もう一度訪問したいミュージアムなのです。
◆紫式部墓・小野篁墓
京都市北区堀川北大路通下ル西(島津製作所紫野工場隣)
平安時代、紫式部がこの地に葬られたという。かつて、雲林寺の境内に含まれていたとみられている。南北朝時代、1362年頃、公家・学者・歌人の四辻善成(1326-1402)は、『源氏物語』注釈書『河海抄』中に式部墓所について「式部墓所は雲林院の塔頭の白亳院南にあり小野篁墓の西なり」と記した。近代、1937年、墓域は拡張されている。現代、1989年、現在の顕彰碑が紫式部顕彰会により建立された。この白亳院(白亳寺)の創建時期も開山も不明。雲林院の末寺とも、引接寺南の阿弥陀堂を指し、紫野の白亳院を移したものともいう。また、円融院の枝院であり天台道場として、本殿には薬師仏が安置されていたとも、尊胤法親王(1306-1359 )が一時、隠世していたともいう。1353年、四条大納言、山名軍により大徳寺とともに掠奪に遭う。天文・永禄年間(1532-1570)、大徳寺境内に含まれ、現在の塔頭・総見院の地とも、興臨院の付近にあったともいう。また、薬師仏は、高桐院に遷されたともいう。
※紫式部(973?-1031?)/藤原為時の子、母は藤原為信の娘。本名は香子(たかこ)。幼くして母、後に姉も亡くす。996年為時が越前守に任じられ紫式部も下向する。997年帰京する。998年頃、複数の妻子ある地方官吏・藤原宣孝の妻となる。宣孝は式部 の又従兄弟に当たる。999年式部は一人娘・賢子(かたこ)を生む。1001年夫と死別、1006年内覧左大臣・藤原道長の娘・中野彰子(院号・上東門院)に仕える女官となる。紫式部は侍講として漢文学を教え、傍ら54巻の『源氏物語』を執筆した。物語は当初から宮廷で評判となる。1008年『源氏物語』が流布する。1014年皇太后彰子の病気平癒祈願のため清水寺に参詣する。通称名は藤式部と呼ばれた。候名の「式部」は、父の官名「式部丞」に由る。『源氏物語』中の女主人公、紫の上に因み、紫式部と呼ばれるようになる。物語は「桐壷」から始まる54帖からなり、光源氏の誕生と栄華、その晩年の苦悩、その死と子らの悲哀を描く三部構成になっている。紫式部は、自らの半生を物語に投影したといわれている。12年の歳月をかけ、完成とともに亡くなる。娘の賢子(大貳三位)も、第70代・後冷泉天皇の乳母となり、歌人としても知られた。
※小野篁(802-853)/平安時代初期の公卿、文人。岑守(みねもり)の子。野狂、野宰相などとも呼ばれた。文章生、東宮学士、834年遣唐副使に任命される。だが、838年の3度目の出発に際して、大使の藤原常嗣と対立し、乗船を拒否したため嵯峨上皇により隠岐に配流された。2年後召還され、847年参議となる。武芸、和歌にも秀でた。百人一首に「わたの原八十島かけて漕ぎ 出でぬと人には告げよあまのつりね」がある。北区の紫式部の墓の隣に墓がある。伝承として、篁は昼は朝廷に仕え、毎夜、冥土へ入り、閻魔庁第二冥官として大王のもとで死者に対する裁判に立会っていたという。藤原高藤、藤原良相らを蘇生させたともいう。これらの篁の冥官説は平安時代より、また室町時代に始まったともいい、江戸時代には篁が冥土に行き来したとする話が定着した。(『江談抄』『今昔物語』『元亨釈書』)。墓は紫式部の墓の西に隣接する。墓建立の経緯については不明だが、少なくとも室町時代には存在していたという。
※雲林院/墓の西に、紫式部が晩年を過したとされる雲林院がいまもの残されている。墓所もかつては境内に含まれていたとみられている。寺は『源氏物語』第10帖「賢木(さかき)」の巻にも登場する。
・・・「島津製作所」にこだわったからこそ、この「紫式部」の墓を発見することができました。これからも、寄り道・回り道・裏道を大切にしたいものです。