大学ミュージアム(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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旧平賀家住宅(国登録有形文化財)

旧平賀家住宅は、平賀義美博士が大正7年に猪名川沿いの川西市小戸に建設した、イギリスの田園住宅の形式を極めて良く遵守した住宅です。平賀博士は、安政4年(1857年)に福岡県で生まれ、東京大学を卒業した後、関西財界の振興に尽力され、多くの公職及び財界団体の要職につかれていました。イギリス等欧米に外遊7回を重ねられ、このことが旧平賀家住宅の建築意匠に反映されることになりました。


にし1


施工は、鴻池組があたりました。外壁は小石の洗い出しで、基礎はみかげ石積み。洋小屋スレート葺きの屋根のかかった平屋の建物です。外観は出窓と煙突がアクセントとなっています。内部は、客間・書斎・寝室等の部屋が配され、出窓・暖炉が付けられ、イギリス流の形式を忠実に守っています。また、二重窓など合理的な設備と的確な装飾で引きしめるなど、端正で洗練された意匠で統一されています。大正期の住宅の典型として、日本の近代建築史上重要な建物といえます。その他、平賀博士が化学者であったことから実験研究棟と旧邸内にあった東屋・門・橋・胸像なども移築し、復元しました。


にし2


・・・素晴らしい建物です。「マッサン」のロケで使用されたそうです。


にし3


平安製錬所跡

現在、旧宅を川西市郷土館として公開している平安家は、多田銀銅山最後の製錬所として昭和初期まで操業していました。多田銀銅山は、兵庫県川西市・猪名川町・宝塚市から、大阪府能勢町・豊能町・箕面市・池田市にかけて鉱脈が広がっています。採掘は平安時代後期に能勢町の地域で始まりますが、川西市国崎地区の奇妙山神教間歩から奈良時代に東大寺大仏の銅を産出したという伝説もあります。最盛期は、安土桃山時代の豊臣秀吉による経営から江戸時代前期にかけての頃で、猪名川町銀山地区を中心に、川西市郷土館周辺の山下町下財屋敷も製錬町として栄えました。下財屋敷北部の平安家は明治以降も製錬を行ない、大正時代には新たに近代化された製錬所を旧平安家住宅の北東側に建設し、昭和10年頃まで操業していました。製錬所は溶鉱炉・真吹炉・送風機小屋・煙突からなっていたことが、発掘調査や聞き取り調査から明らかになっています。しかし、溶鉱炉や送風機等、近代化された施設を持つとはいえ、製錬の仕上げは近世以来の真吹炉が用いられていました。当時転炉を導入した近代化製錬所はすでにあり、これに比べると伝統的な小規模製錬所といえます。


にし4


ミューゼレスポアール(青木・平通両画伯記念館)

鉄筋コンクリート造り2階建て、外観は文化の発展性と求心性をイメージしたモダンな渦巻き状の円系建築。「ミューゼレスポアール」はフランス語で希望を意味しています。第1展示室(2階)では、川西市ゆかりの青木大乗(日本画家)・平通武男(洋画家)両画伯の画業を回顧して遺作を常設展示しています。第2展示室(1階)では企画展、講座・講習会を開催しています。


・・・作品数も多く、このミュージアムだけでも立派なものです。


にし5


アトリエ平通

川西市をこよなく愛された故平通武男画伯及び故全子夫人の意向を受け、ご遺族よりアトリエのあった川西市花屋敷の土地・建物の売却益及び遺品が川西市に寄贈されました。この建物は、それをもとにアトリエを再現したもので、兵庫県産木材を使用した重ね梁工法を用いて建築しています。


・・・「大阪青山歴史文学博物館」を訪問したついでに立ち寄ったのですが、とんでもなく素晴らしいミュージアムでした。遠路「川西市」まで来た甲斐がありました。ぜひ、大学ミュージアム巡りとあわせて訪問されることをお勧めします。