★伯耆茶会
大阪青山大学・大阪青山短期大学と茶道裏千家財団法人今日庵の共催による伯耆茶会が、大阪青山歴史文学博物館にて行われます。博物館の建つ多田の地にゆかりの塩川氏(代々「伯耆守」を名乗る)を偲び、毎年開催されているお茶会です。なお、この茶会には博物館学芸員課程の履修者や、一般教養科目「茶道」の履修生もお手伝いとして参加。伝統文化を学ぶ学生にとっては、貴重な実習の場となっているようです。お菓子は、京都の老舗として知られる末富の「山道」をいただきました。
【参考】塩川氏
戦国時代の摂津の国人領主の一で、山下城(別名一蔵城)に拠った塩川氏が知られている。山下城は『細川両家記』には一蔵城と記され、『摂陽軍談』には「塩川氏が甘露寺を破壊して山下城を築いた」と記されている。いずれにしろ山下城は戦国武将塩川氏が割拠した城であり、典型的な戦国山城の特徴を持つ城である。その出自、系譜などは明確ではない。流布されている説として、多田源氏の祖源満仲の女婿塩川刑部丞仲義がおり、刑部丞仲義が多田の新田城の控えの城として山下城を築いたとされる。塩川氏の後裔にあたるという北摂の旧家に伝来する『多田雪霜談』によれば、藤原鎌足の子孫という恵美朝維二代の兵衛大尉宗朝が塩川を称し、その七代の孫宗重が多田光義を養子に迎えて源氏を称するようになったのだとある。しかし、『雪霜談』は江戸時代に成立した軍記者物語であり、その内容をそのまま鵜呑みにすることはできない。一方、塩川氏の家臣にあたる人物が書き残したという『高代寺日記 塩川家臣日記』が伝わっているが、こちらも江戸時代の成立であり確実な史料とはなりえないものである。とはいえ、塩川氏は代々多田院御家人筆頭として多田庄及び能勢郡一帯に勢力を持っていた。そして、多田神社に伝わる古文書をはじめとして、中世の記録にその名前が散在し、戦国時代の『信長公記』『明智軍記』にも北摂の有力武士として登場している。塩川氏は現在の猪名川一帯を本領として、北を能勢氏、南を池田氏と接し権謀渦巻く中世を生き抜いたのであった。
【参考】末富
602-8031京都市下京区松原通室町東入/075-351-0808
京都は「お菓子屋はん」「おまん(饅頭)屋はん」「お餅屋はん」の三種類が上手に住み分けている街です。その中で「お菓子屋はん」はおもてなしに使われる菓子を作っています。小さな菓子の中に季節や思いを演出する京菓子司「末富」。明治中頃、京菓子の老舗「亀末廣」から暖簾分けしました。店の名前と、お菓子を見たら、どこの「分かれ」かわかるようにし、またそれを誇れるようにするのが「暖簾分け」の世界です。末富の先代は病弱で徴兵にとられませんでした。そのため一度もかまどの火を絶やさず続けることができました。各茶道の家元との付き合いが始まったのもこの先代の頃から。 そして今では茶の湯の菓子を作る店として知られるようになりました。末富は寺院とのつながりが深く、お供物や行事ごとの菓子も作ってきました。初めは東本願寺の御用の菓子を中心に、やがて妙心寺、知恩院、唐招提寺などにも出入りが許されるようになります。今でも寺院の菓子は末富の主要な仕事となっています。
※「末富ブルー」
かつて菓子には青い色はほとんど使われていませんでした。しかし、末富の先代は青い色を好み、よく使いました。この青は和菓子の中でもモダンなイメージを作り、今では末富のイメージカラーにもなっています。そして、包装紙のデザインは、日本画家の池田遙邨画伯のもの。昭和30年に誕生しました。末富ブルーの包装紙は、なんども重ね刷りをしてようやく生み出されるものです。色あせしやすく、大量に印刷できない、繊細な色です。
※「山道」蒸し菓子の一種。こしあんに薄力粉を混ぜて蒸し、砂糖水を加えてさらに練り上げ、様々な色に着色したものを「こなし」と言います。独特の弾力があり、棹物(さおもの)や茶巾絞りなど様々な形に使われています。
※一般財団法人・裏千家「今日庵」
602-0061京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613番地/075-431-3111
http://www.urasenke.or.jp/index2.html
・・・せっかく川西市まで来たのですから、このまま帰るわけにはいきません。近くにミュージアムはないかと探しましたら、「川西市郷土館」がありました。
◆【川西市郷土館】◆
666-0107川西市下財町4番1号/072-794-3354
銅の製錬を業としていた旧平安家住宅を利用して、昭和63年(1988年)11月に開館しました。ついで平成2年11月には、川西市内の小戸地区にあった洋館の旧平賀家住宅を移築復元しました。平成7年11月には、青木・平通両画伯記念館として、ミューゼレスポアールをオープンし、同時に旧平安家住宅において、一色八郎氏のコレクションである箸の展示室を鉱山資料展示室とともに公開しています。平成22年2月には、平通画伯のアトリエを再現したアトリエ平通をオープンし、絵画教室等を行っています。郷土館では、通常の施設公開のほかに、各種講座、コンサート、イベント等を開催しています。旧平安家住宅と旧平賀家住宅は、国登録有形文化財(建造物)に登録されており、旧平安家住宅は兵庫県景観形成重要建造物に指定され、旧平賀家住宅はひょうご近代住宅100選に選ばれています。
★川西市制施行60周年記念川西市郷土館特別企画「荒木富佐子和紙人形展~陽だまりの想い~」10/1~10/23
昭和30年代の農村風景が蘇る「荒木富佐子和紙人形展」
川西市郷土館(同市下財町)で10月1日、特別企画「荒木富佐子和紙人形展~陽だまりの想い~」が始まった。自分の幼い頃の情景を思い浮かべながら荒木富佐子さんが作り上げた和紙人形を、昭和30年代の農村風景をモチーフとした群像を中心に26セット展示する。群像は四季ごとに分けられて紹介されており、反物を干すために張る「伸子張り」や嫁入りの一場面を描いた「嫁取り」など、昭和の時代を感じることができる。荒木さんの人形は一見ほかの素材と思われる部分にもすべて和紙を使用。すべての作品にはタイトルの横に妹の茅根(かやね)恵子さんが制作した誌が添えられる。23日まで。
●旧平安家住宅(国登録有形文化財)
旧平安家住宅は、この地方の伝統的民家の特徴と、明治以降広まった数寄屋風の造り、そして技術的な革新と近代性を備えた建物として、大正中後期に建てられました。主屋は、土間に沿って三間が並ぶ六間取りの平面構成で、細部意匠もこの地方の伝統と考えられます。素材は桧と欅が中心で、しかも無節の厳選されたものが使われています。玄関部分には接客用の部屋(現在の事務室)があり、接合部に金属の補強が見られるなど、近代的特徴が見受けられます。また、中庭に面した屋根を一文字瓦葺とするほか、廊下や縁側に化粧垂木を用い、床柱にも銘木を用いるなど、数寄屋風の造りがうかがえます。全体としては、中庭を取り囲むように、蔵4棟、はなれ座敷・浴室が配置されています。その外の東側に米蔵・納屋が南北一列に並ぶ二重の構成をもった大きな屋敷で大正期の生活をうかがい知ることができる貴重な建物といえます。
●箸の展示室「一色八郎」コレクション
箸の展示室は、一色八郎氏により長年収集された箸のコレクションを展示しているものです。一色氏は、手の動きと脳の発達について大きな関心をもち、手を使うことが脳の発達を促すとして箸に着眼されました。収集された箸は920点に及び、日本各地の箸だけでなく、中国やモンゴルなど外国の箸にまで広がっています。箸は、祝い箸、工芸・民芸箸、塗り箸、神社の授与箸、寺院の授与箸、アジア各国の箸などに分類・整理されています。とくに、授与箸にみられるように、祈願やお守りと同様に箸が神聖なものとして発達しています。また、正月などのハレの日に使用する祝い箸などは、習俗や日本文化を考える上で重要なものとなっています。一色氏は、昭和57年から川西市に住居を構えられましたが、平成7年にお亡くなりになられ、ご遺族より川西市にコレクションが寄贈されました。
・・・とにかく「カエル」を見つけるだけでうれしくなります。
●鉱山資料展示室
旧平安家住宅内の鉱山資料展示室では、平安製錬所で用いられた道具類や発掘調査の成果を展示しています。平安家は、明治以降も銅製錬を行なっていましたが、明治期と大正・昭和期の2期の製錬所があったことがわかっています。明治期の製錬所は、現在の旧平賀家住宅の北側にあったことが当時の写真でわかります。展示資料の吹子はこの時代のもので、近世と同様の製錬技法で操業していました。大正・昭和初期の製錬所は、ミューゼレスポアールの南側の位置にあったことが発掘調査で確認されています。一輪車などの道具類はこの時代に用いられたものです。
・・・まだまだ奥に、ミュージアムがあります。