・・・だんじり・布団太鼓ときたら、次は「おみこし」ですね。
◆神輿庫
拝殿の東側にある神輿庫は1747年に建造されたものです。
【参考】神輿、御輿
神道の祭の際に、普段神社にいる神霊が御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である。輿であるから通常は担ぎ上げて移動するものを指して言うが、それを台車に乗せて曳くものなど、別形態のものを指すこともある。祭りによっては、御輿の巡行に、山車(山)、鉾(ほこ)、だんじり、屋台が随行する場合もある。「御輿」は「輿」に「御」を付けたものであるが、さらに「御」をつけて「おみこし」と呼ばれる場合がある。神が乗る輿であるので「神輿」とも書かれる。なお、鳳を屋形に頂き神輿の原型とされる輿を特に鳳輦という。
【参考】太鼓台(布団太鼓)
布団太鼓は御神輿が巡幸して来る事を知らせる(触れ太鼓)役割と、後から来る御神輿の為に道を浄める役割があります。その祓い清められた道を、御神輿が通ります。
◆神輿足洗神事(川行神事)
まだ神様のお乗りになっていない「裸神輿」が出門します。御神体をお迎えする為に神輿を祓い清める足洗神事(川行神事)が、平野川「樋之尻橋」たもとにある「御祓所」で執り行われます。「足洗い」と呼ばれているのは、昔まだ平野川が護岸整備されておらず、河原があった頃に、太鼓台、神輿を清めたことから、俗に「足洗い」と呼ばれています。
◆平野公園/平野区平野東2丁目/14,778平方メートル
以前公園の中にあった松山池にちなみ、戦前は松山公園と呼ばれていました。松山池はかつての平野環濠跡であり、明治初年には、東西0.24丁(約26メートル)、南北2.19丁(約238メートル)、周囲5.26丁(約573メートル)の面積があり、水深は8尺(約2.4メートル)と記録されています。江戸時代から明治初期ごろは、灌漑用水として使用されていましたが、昭和3(1928)年1月、杭全神社所有地の三十歩神社周辺の土地を無償で使用し、平野公園が造成されたため、公園の一部となりました。松山池のほとりは、桜の名所として親しまれ、池には橋も架けられて貸ボートがあり、市民の憩いの場でした。平野小学校の児童たちが校外学習や運動会などを行った思い出も伝えられています。第二次世界大戦中には、桜の木は切られて薪となり、橋も壊されて一度は荒れてしまったといいます。昭和44(1969)年に橋の架け替えや噴水の増改修等、大改装が行われた際、池のほとんどは埋め立てられ、松山池は姿を消しました。しかし公園内には、土居(堤)跡や「樋之尻橋」の親柱、「松山小橋」など多くの史跡が残されています。
◆平野の黄金水
平野はもともと低湿な土地柄でそのため井戸水の水質が悪く、そのままでは飲用に耐えなかった。しかし、この井戸は良質の水に恵まれ、多くの住民に利用された。坂上廣野麿により荘園として開かれて以来上水道が普及するまでは、付近住民にとり貴重な飲料水であった。また、平野の酒造業にも利用されるなど自由都市平野郷の発展を支える大きな役割を果たした。
◆近代河内音頭発祥の碑
平野では河内音頭の一流派である平野節の初音家一門の発祥の地であることから、毎年夏季には平野公園(旧松山公園)のグランドに於いて櫓が組まれ、初音家一座を招いて盛大に盆踊りが執り行われる。平野公園内には、近代河内音頭発祥の石碑がある。
◆赤留比売命神社
「三十歩神社」とも呼ばれています。『平野区誌』と『大阪史蹟辞典』によると名称の由来は三つあります。応永年間(1394~1428年)に旱魃がおこった際、覚証上人が祈雨のため法華経30部を社殿で読誦し、霊験があったことから「三十部神社」と呼ばれたのち「部」が「歩」と変化した、または祭神の赤留比売命(あかるひめのみこと)が住吉大社の姉神から「三十町歩を分け与える」と言われたのを「三十歩」と聞き違えたため、あるいは社地が三十歩しかなかったためといわれています。祭神は、新羅から難波に渡来した女神、赤留比売です。住吉大社の祭神と姉妹であるという説から住吉大社の末社となりました。『摂津名所図会』の住吉大神社に「三十歩神祠平野郷中野堂町にあり。[延喜式]に曰く、赤留比賣命神社・・・」と記述があります。住吉大社の神事である「荒和大祓」の際、平野郷の末吉家をはじめとする七名家が神役をつとめました。1914(大正3)年からは杭全神社の境外末社になっています。
祭神の赤留比売命は四天王寺ワッソに登場するお姫様であることから、四天王寺ワッソの関連行事として、地元商店街・町会などが協力して、赤留比売命らが当時の装束でパレードをする「平野古代市」を毎年開催しています。
・・・まさしく、「町ぐるみ博物館」ですね。