平野町ぐるみ博物館(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・せっかく杭全神社に来ましたので、いろいろ調べてみたいと思います。


くま1


◆お茶池橋

お茶池は埋め立てられて、「杭全公園」になりました。しかし、水はありませんが「お茶池橋」は残されています。いいことです。

・・・「弁天池」は、残っています。弁天さんのおかげですね。


くま2


◆筆塚

東洋文化の母胎は筆の力によるもの最も多く日頃技を練り心を磨いてくれる大切な筆その尊い使命を果した退筆に感謝の誠をこめて土中に埋め塚を築くを筆塚と称し我が国に於いても所々に存在しているその濫鯣は遠く千四百有余年の昔中国の書聖王義之七代の孫随の智永襌師は永欣寺の閣上に居住し三十年間に亘り書を学びその眞草千字文は今も尚書道家の模範として珍重するところにしてその使用した古筆を竹篭に納め置きたるもの五箇に及びそれを土中に埋め其の上に退筆塚を建て筆のために供養したという。この故事に習い長谷川晴風は自己の古稀を記念し筆塚の建立を発願し晴風書道会会員と相計り碑材生駒石を得て由緒あるここ杭全神社神苑に昭和四十四年十一月二十六日筆塚の建立落成を見るに至る尓来例年天紅葉の秋碑前に於いて広く一般有志の方から廃筆の奉納を得て筆の持つ力を讃えその労を謝すと共に文化の発展と学徳成就及び福寿増長を祈願し併せて筆塚の弥栄えん事を祈念し筆供養を盛大に欽修して筆の功績を顕彰し筆と共に総て物に対し感謝の美徳を養い書技上達を念願し建立せる所以にして其の霊験亦あらたかなり各位使い書しの廃筆を奉納し書技向上の功徳を得られん事を期待します。杭全神社筆塚保存会

◆弁天池

納豆ネバネバで池を浄化大阪市の杭全神社

アオコや藻で汚れている大阪市平野区の杭全神社の弁天池で2010年4月3日、大阪市内の水質浄化剤メーカーが納豆に含まれるアミノ酸を成分とする水質浄化剤の散布実験が行われました。主成分は納豆菌から取り出したポリグルタミン酸。アオコなどに作用し、互いに引き付けさせることで固形状にし、取り除きやすくする。生態系にも影響はないという。約千平方メートルの池に溶液を散布すると約30分後には藻が塊となって浮上。約6時間後に網で取り除くと、緑色に濁っていた水面が透明に。納豆ネバネバは藻をくっつけるほど強力だということが実証されました。

http://www.poly-glu.com/index.html

「弁天池(杭全神社)に遊歩道完成」

2011年5月、弁天池(杭全神社)遊歩道が完成し、6月にお田植え神事行われました。弁天池周囲の遊歩道に設置する春日燈籠のご奉納をお願いしております。立地の関係上、30基に限っての設置となります。


・・・多くの方々の努力・尽力によって「弁天池」は維持管理されていることが、わかりました。弁天さんのおかげ、だけではありませんね。


くま3


◆標柱(しめばしら)

神社を訪れると、入口にかしそうな文字が刻まれ一対の石柱があります。この石柱は「標柱」といい、そこに彫られた語句は「宣揚文」といいます。この「標柱」の建立は全国的なものではなく、瀬戸内に多く、中でも広島県が圧倒的に多くその数約1千百社、1千五百対(平成10年)あるそうです。「宣揚文」を刻む目的は五穀豊穣祈願、国家繁栄祈願、凱旋記念、神社の改装記念、中には個人的な記念などもあるようです。その神社や寄進者の願望などが刻まれています。

◆平野環濠跡

平野環濠の明確な成立年代は不明だが、室町~戦国期にこの辺りの集落の環濠化が進んでいる事から、同時代の成立と考えられる。環濠内には7つの町が含まれており、力を併せて運営されており、その規模は堺に次ぐものであった。平野環濠は度々武将の宿営地として使用されたが、織田信長が堺を支配下に置くのとほぼ同時期に信長の支配下に入った。天正11(1583)年、豊臣秀吉が蔵入地として町の有力者であった末吉勘兵衛を平野郷の代官として支配を強めた。慶長年間になると、平野郷は秀吉の妻であった高台院領となり、町の有力者を天王寺村へ移住させ、環濠を埋めて破壊した。慶長19(1619)年の大坂冬の陣では東軍の徳川秀忠によって陣所として利用された。翌20(1615)年の大坂夏の陣では、西軍の後藤基次が道明寺への出撃前に陣営として利用したため、東軍の藤堂軍により焼き討ちを受けている。この戦いの際に豊臣方の首級を挙げ、自らも傷ついて自刃した、徳川秀忠の旗奉行であった安藤次右衛門尉正次の墓所が、樋尻口脇の土塁跡に残されている。平野環濠は明治初年まで環濠を維持してきたが、その後都市化の波によって徐々に埋め立てられていった。


くま4


杭全神社の

大阪府指定の天然記念物で、周囲10m以上、高さ約30mに達し、樹齢は1000年と言われており、樟社として、お祀りされていて、地元平野では、「くすのきさん」と親しまれています。拝殿左後方には大阪市保存樹に指定されたイチョウの巨樹があり、その他にも保存樹に指定されたクスノキが9本もあります。

◆太鼓庫

布団太鼓は大阪府河内・泉州地方や、兵庫県播磨・淡路その周辺で担がれる大型の太鼓台のことである。重さは1.0t~2.0tあり、約50~70人ほどで毎年各神社の祭礼で派手な演出と共にいきおいよく担がれている。内部は中央に太鼓があり、「乗り子」と呼ばれる少年4~8名が乗り込む。激しい動きでも転落しないように乗り子を縛り付ける地区もある。乗り子は舞台化粧並の厚化粧で、豪華な衣装を着る場合が多い。撥の形は野球のバットを短くしたような太くて短いものを使う場合が多い。大阪型は、布団の角度が小さく彫り物中心のふとん太鼓。土呂板や欄干、雲板にも彫刻が入る。その中でも雄太鼓と呼ばれるものもあり、飾りが少なくシンプルなのが特徴的である。杭全神社では、毎年地車を宮入りさせる町が順番(9年に1度)でふとん太鼓の運行を担当。ふとん太鼓は、11日と14日のみ。乗り子は、ここでは「敲き児」(お稚児)と呼ばれ、3~12歳位の少年が厚化粧して豪華な衣装、四角い布が垂れた頭巾を被って登場。敲き児」は祭りの間は神様と同じ扱いとなり、地上に足をつけないよう大人が肩車をして移動することになります。


くま5


杭全神社の大門

鎌倉時代(八百年以上前)の建造物で、神社の建物の中で最古のものです。国宝指定を受ける予定でしたが、大正12年に奈良街道が現在の位置になった時、馬場先(現在の大鳥居の正面右側)にあった御旅所が収容されてしまい、宮入神事が境内に移ることになりましたが、だんじりが大門を通ることができませんでした。手を加えると国宝指定が取り消されるにもかかわらず、門の高さを二尺ほど(約60cm)高くしてだんじりが通れるようにしたということです。


・・・むむむ、知らないことだらけです。