・・・第二寝屋川は「平野川」なんです。
◆新鴫野橋
江戸時代、現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に鴫野橋という公儀橋があった。この橋は大坂城の城内にあり、一般の人々が利用できない公の性格の強い橋であった。初めて架けられた時期は明確でないが、豊臣時代の城絵図や冬の陣・夏の陣を描いた絵には見あたらず、この時期にはまだ架けられていなかったものと思われる。明治になって弁天島の地が軍の用地となり、橋も陸軍の施設となったため、橋に関する詳細は伝えられていないが、この時期に鉄橋になった。その後の新鴫野橋は、橋長約55m、幅員8mの規模で、昭和10年3月に架け替えられたものと伝えられている。近くの寝屋川には、地名から鴫野橋と命名された橋があるが、戦後、軍管理の橋が大阪市に引き継がれる際に新鴫野橋と命名されたため、公儀橋の鴫野橋とは場所が入れ替わってしまった。近年の発掘調査で発見された大坂城の石垣の配置からも、古い鴫野橋が現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に架けられていたことが確認されている。現在の橋は昭和63年に架け替えられたもので、擬宝珠が付けられ、由来碑も整備されている。
◆大阪砲兵工廠荷揚げ門(水門)
設立当初の砲兵工廠は、材料の搬入や製品の輸送を水運に頼っていたため、1871(明治4)年、平野川(第二寝屋川)に水門を設けてスロープをつけ、船が工場内に出入りできるようにし、荷揚げ、積み込みを行っていた。その花崗岩造りのルネサンス風の美しいアーチ水門が大阪城ホールの北西側に残っており、対岸側から見ることができます。
【参考1】大阪砲兵工廠化学分析場(紹介済)
1919(大正8)年、寝屋川にかかる京橋の南側に建てられた左右対称のネオ・ルネッサンス風赤レンガ2階建の重厚な建物。新兵器の開発や研究、化学試験などがここで行われていました。戦後すぐは大阪大学工学部校舎、その後1995(平成7年)年まで自衛隊大阪地方連絡部庁舎として使用されていました。建築家の置塩章氏の設計です。
【参考2】旧陸軍大阪衛戍刑務所
軍法会議で判決を受けた軍人が服役した所です。現在は、公園城内詰所として使用されています。
◆平野郷町大阪市編入記念碑
平野郷は明治後の市町村制により住吉郡(後に東成郡)平野郷町として存立し、在郷の中心都市としての中心性を維持してきました。大正期に入り大阪都市圏外縁部における工業化と都市化が急速に進展するようになると、都市計画の一体的な策定・進捗や教育制度等の統一的な運用などが叫ばれるようになり、大阪市域の拡張が唱えられるようになりました。その時流の中で平野郷町を含む東成・西成両郡も1925(大正14)年4月1日に大阪市に編入されました。旧石碑はこれを祈念して杭全神社境内に建立され、1995(平成7)年までこの場所にありました。
◆平野環濠跡/平野区平野宮町2-1(杭全神社東側)
いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。濠は「平野川」ともつながり、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する「柏原船」の発着で賑わい、繁栄の基礎ともなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられた。環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
・・・ようするに、「平野郷」は「平野川」を介して「大坂城」とつながり、「平野」の繁栄は「大坂」の繁栄でもあったのです。
※「平野川」について、より詳しく知りたい方は「平野川探訪」という素晴らしいHPがありますので、そちらをご覧ください。