平野川(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・大阪城公園から京橋方面へ、



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追手門学院小学校

540-0008大阪市中央区大手前1-3-2006-6942-2231

http://www.otemon-e.ed.jp/introduction/environment.html

都心の交通至便な大阪城三の丸の地に、追手門学院小学校があります。大阪から通学するのはもちろんのことですが、奈良からも地下鉄等を利用することで容易に通学することができます。また、兵庫からはJR東西線・学研都市線を利用することで、また京都方面からは京阪電車を利用することでと通学に大変便利な場所であります。そんな通学に便利な都会にありながらも一方で、自然があふれる場所でもあります。運動場から道ひとつ向こうには、広大な大阪城公園の豊かな緑があり、美しい四季を知らせてくれます。落ち葉やどんぐりを拾い、林の中で遊び、木陰で一休みするとき、大都会に居ながら大自然の息吹を感じることができ、情緒豊かな教育を行うことができます。また、歴史的にも重要な場所でもあります。1596年に豊臣秀吉が築いた三の丸石垣が本校東館建設時の文化財発掘調査により、発見されました。1614年大阪冬の陣での講和条件に基づき、地中深くに埋められたものです。400年の時を経て、豊臣秀吉の思いがこの地でよみがえりました。本校東門横に移設、復元しておりますので、お立ち寄りの際には是非ご覧ください。

◆京橋

京橋は大阪城の北の玄関口に当たる重要な橋で、公儀橋に指定されていた。大阪城を起点として京都へ向かう京街道や野崎まいりで有名な野崎街道を兼ねる大和街道の出発点であった。現在の京橋は、第一次都市計画事業の橋梁改築事業によって大正13年に架け替えられた橋が、昭和5年にスタートした寝屋川の改修事業によって3径間の橋に手直しされたものである。戦中戦後を通じて傷みがひどくなっていたが、昭和56年にその姿が一新された。改装にあたっては大阪城の歴史的な背景を新たに創造できるよう、外装全体は石垣のモチーフでまとめられ、城郭を形成する石塁の力感ある構造が、橋の高欄・親柱に採用されている。また、高欄は歩く人に安らぎを与えるよう、植樹枡を兼ねた構造になっている。橋上照明は太閤秀吉ゆかりの千成びょうたんを模した形となっている。


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◆大坂橋(京橋歩道橋)

大正14年3月、東横堀川の浚渫中に、末吉橋と九之助橋の間の川底から「大坂橋 天正拾三年」(1585)の銘が刻された擬宝珠(高さ60cm×外径35cm、重さ15kg)が発見された。しかし、この「大坂橋」は過去のいずれの文献にも見あたらず、橋の所在・規模については、後にさまざまの議論が展開されることになる。この立派な擬宝珠は、昭和6年に再建された大阪城天守閣に保存され、市民に公開されていたが、終戦の混乱時に行方不明になり、橋の所在と同様に幻の擬宝珠となってしまった。幻の「大坂橋」の名前は、昭和48年大阪城公園と毛馬桜宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋として390年ぶりに復活された。主橋梁部は、方杖式ラーメン橋と呼ばれるユニークな形式で、橋面には、中木と低木が植えられている。なお、橋上には橋名由来碑が設置されている。


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◆寝屋川橋

昭和初期、京阪電鉄天満駅の拡張工事のときに天満橋の上流にあった淀川の中洲を削り、同川岸の湿地帯や寝屋川の一部を埋め立て、国道2号に代わる町路を設け、昭和4年(1929)、ゲルバー式鋼鉄桁橋で橋長94.5m、幅員19.0mの橋が架けられた。現在この橋は、交通量も多く日常生活のみならず災害時の避難路と物資供給路としても重要である。

◆川崎橋

江戸時代、大阪城京橋口から、幕府の役人宅や諸藩の蔵屋敷があった対岸の川崎(北区天満一丁目の一部)へは「川崎渡」が通っていた。明治10年になってこの地に橋が架けられたが、私設の橋で通行料一人三厘を徴収したことによって、「ぜにとり橋」と呼ばれたらしい。この橋も明治18年7月初めの大洪水によって下流の橋ともども流失し、以降再建されることはなかった。現在の川崎橋は、中之島公園と千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として昭和53年に架設された。形式は高い塔から多くのケーブルを出し、桁を吊った斜張橋というタイプで、技術的にすぐれ、景観を重要視した橋として、土木学会の賞を受けている。


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◆京橋川魚市場跡

大阪の魚市場といえば堀江の雑喉場(ざこば)魚市場が著名である。しかしながら近世の魚市場は雑喉場ひとつではなく、木津や天満にも海魚を扱う市場が営まれていた。また海魚とは別に川魚を扱う市場が京橋にあった。京橋川魚市場の起源は、石山本願寺期に設けられた鮒市場とされる。もともとは漁民が、京橋の北詰に川魚を持寄って販売する市のようなものだったと考えられる。寛保元年(1741)の「京橋川魚独占販売由来記」によれば、慶長年間(1596~1615)のはじめころに、小出播磨守の指示を受けて構成員55人、うち5人を幹事である年寄とする市場機構のシステムが整えられた。以降近世を通して、幕府から大阪で川魚を独占的に扱うことを公認された市場となった。しかし近代に入り、市場機構の変革が進む中で、京橋川魚市場は明治末年には中之島6丁目付近へ移転し、大正4年(1915)に大阪川魚株式会社が設立された

【碑文】江戸時代に大阪の川魚の流通をつかさどった京橋川魚市場は、石山本願寺期(16世紀)の鮒市場が発展したものといわれ、明治末期までこのあたりにあった。



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◆大阪ビジネスパーク

水と緑に囲まれた大阪城公園が広がる場所。柔らかな光の乱反射を見せる川を隔て、26haの敷地を誇る街が広がります。古を今に伝える大阪城と調和し、緑豊かな自然が息づく「世界に開かれた国際情報都市OBP」。緑あふれるこの街では、超高層なビルなど15棟がたちならび、ビジネスを軸に展開する複合都市として、次代を見据えた活動が行われています。OBPは、水と緑と太陽を享受するビジネスオアシスです。第二寝屋川を隔てたOBP地区の南、105.5haの敷地を誇る大阪城公園が展開しています。公園の水と緑に囲まれ、史跡・大阪城をも含むこの地区は、市内でも唯一最大の歴史と景観の地。今では超近代的なOBPが加わり、この一帯はこれまでにない新しい観光地となりました。大阪城築城時に使用されず、小豆島に残された石でつくられた残念石。OBPのオブジェとして、大阪城と一体となった素晴らしい景観をつくり出しています。なお、加盟する各企業がパブリックアート等を設置しています。http://www.obp.gr.jp/art.html