大阪城公園へ(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・まずは、現代美術の回廊ココア」於:大阪府庁へ。



ここあ1


戦後アメリカのアート界で生きた日系人画家金光松美展/階吹抜け

今回、[COCOA]の2階吹抜けの壁面には、戦後アメリカのアート界で生きた日系人画家、金光松美の作品を1950年代の抽象作品から晩年の作品を12点展示しています。金光は1922年にアメリカのユタ州で日系移民の子として生まれました。その後、3歳から18歳まで、両親の実家のある広島で祖父母と暮らし、戦前の日本教育をうけて育ちます。その後単身渡米、一時帰国の後、1940年に再渡米し、渡米後、米国陸軍に招集され兵役につきます。太平洋戦争がはじまり、在米の日系人にとってはきわめて過酷な状況でしたが、まもなくキャンプ内で画家として特別任務につき、ヨーロッパにわたり、西洋の美術と文化にふれる機会を得ます。戦後はメリーランド州でパトロンに恵まれ、1951年にはニューヨークに出て、アート・スチューデンツ・リーグで国吉康雄のもとに学び、本格的に画家としての活動を始めます。1950年代前半は、具象的な作品を描いていましたが、1953年の国吉の死去にともなって、かねてからつきあいのあったジャクソン・ポロック、デ・クーニング、フランツ・クラインらとともに抽象表現主義をてがけるようになりました。1965年には、ニューヨークからロサンゼルスに移り、カリフォルニア大学などで教鞭をとりながら作品の制作をつづけました。1970年代からはじまる「太平洋シリーズ」や、四季の移りかわりや気候などをテーマにした作品。80年代後半から晩年にかけては無数の星を思わせるような神秘主義的な作品。具象から抽象表現に移行してからの作品たちは、晩年にかけて、色彩表現の美しさとのびやかさが増し、鑑賞者をつつみこむような圧倒的存在感、それでいて清々しい気持ちのよさを感じることが出来ます。第二次世界大戦後のアメリカの美術界において、1950年代から60年代にかけてはニューヨーク・スクールの画家として、また60年代半ばから90年代にかけては西海岸ロサンゼルスで活躍した日系人画家、金光松美の作品をご覧ください。



ここあ2


「須田剋太『街道をゆく』挿絵原画展-東北地方•新潟の街道をゆく」/階通路部分

幅広い絵画表現を生涯にわたり追及し続けた須田剋太による『街道をゆく』シリーズの挿絵原画(青森•秋田•岩手•山形•宮城•福島•新潟の各街道)などおよそ120点展示しています。『街道をゆく』とは、1971年から1996年まで、週刊朝日に連載されていた司馬遼太郎著による同タイトルの歴史紀行です。日本のみならず、世界各地の「街道・みち」をテーマに、実際に現地を訪れ、その他の歴史や風土に焦点をあてるこの連載は、第一回の「湖西のみち」にはじまり、国内53・海外10の63の街道におよびました。須田剋太は、その挿絵を第一回から1990年まで担当し、司馬遼太郎とともに各地を巡りながらのスケッチをもとに、グワッシュ(不透明水彩絵の具の一種)により仕上げられた作品は、およそ1800点以上にもなります。その多くが、旅先で出会った風景や人物が独特の軽妙なタッチでかかれたもので、グワッシュによる彩色とともに、細かく切った色紙による貼り絵の技法なども多く取り入れられ、いずれも色彩豊かに描かれています。また、時には写真を貼りつけたコラージュ的な作品も見られるなど、須田の実験的な試みも多く見られます。これらの挿絵原画は、須田の晩年の1990年に大阪府に一括して寄贈されました。

「須田剋太による抽象絵画」/階中央階段裏手

須田剋太による抽象絵画を3点展示しています。


ここあ3


「木村嘉子展1959-1991」/階吹抜け

今回、[COCOA]の3階吹抜けの壁面には、大阪出身の現代美術作家である木村嘉子の作品を、初期の抽象画から1973年より手がけているネコプリントによる作品まで、14点を展示しています。木村嘉子は、1933年に大阪府高槻市に生まれました。建築家の父と茶•華道家の母のもと、幼少時より絵画に興味を持ち、1951年には京都市立美術大学西洋画科(現 京都市立芸術大学)に入学。卒業後は教員をつとめながら「パンリアル美術協会」(1957年-1986年まで所属)や「Ge展」に出品を重ね、80歳をむかえた現在も精力的に活動をつづけています。木村は、当初具象画を描いていましたが、「パンリアル美術協会」に入会した1950年代後半ごろより抽象画を描くようになりました。その後、油彩と紙粘土を使用した作品、油を多く含ませた透明感のある油彩画、マジックペンで描かれた作品など、自身の求める芸術表現の探求を続け、変化し続け、1973年にはネコプリント技法と出会い、美術作家として初めて作品を制作し、国内外から注目を集めました。“Vivre,c’est changer.”(生きるとは変化することだ)を信条に、時代とともに作風、画材を変化させながら今もなお活動しつづけている木村の、その多彩な作品の変遷を、この機会にぜひご覧ください。


ここあ4


・・・現代美術の回廊、そして近代建築の象徴である「府庁」、その工事の様子と3つの視点から楽しませてもらいました。次の目的地「豊国神社」重森三玲秀石庭」へ。


ここあ5


豊国神社

540-0002大阪市中央区大阪城2-106-6941-0229

明治元年(1868)明治天皇が大阪へ行幸された時、秀吉は天下を統一し国家に貢献すること大である。しかし幕府を作らなかった真の忠臣であるといわれ豊国神社の再興を布告した。再興というのは1615年豊臣宗家が滅びると京都阿弥陀が峰にあった豊国社は 徳川幕府が社領を没収、豊国大明神の神号を無効にし、社殿も 朽ち果てていったからである。明治になって立場が逆転した。最後の将軍である慶喜は天皇の軍隊に歯向かった逆賊とみなされ謹慎した。徳川家の霊廟である東照宮は 全国に500社あったが廃社や合祀により現在は約130社となった。明治13年(1880)方広寺の大仏殿にあったところに社殿が完成した。大阪の豊国神社は京都の豊国神社を本社としてその別社として当初中之島の公会堂のあったあたりに明治12年(1879)に創建された。大正10年(1921)、京都の豊国神社から独立して府社に列格した。

1935(昭和10)年あたりから、大阪市庁舎の増築を理由に、隣接する豊国神社の移転が検討されるようになります。戦争の激化に伴って一時下火になっていた移転計画は、終戦後の1956(昭和31)年から具体的に話が進められ、豊臣秀吉公ゆかりの大阪城への遷座が決定されて昭和36年(1961)、桜門南側の二の丸の跡地に社殿が建立されました。なお、遷座前の社殿は豊中市の住吉神社に移築された。

◆「豊臣秀吉公銅像/作:中村晋也高さ5.2メートル(像3.2m台座2m)

以前、豊臣秀吉公の銅像が明治36年大阪城内に建立され、後に中之島の当社旧境内地に移され、市民が秀吉公を身近に感じることが出来ていました。しかし昭和18年に戦争により供出されその姿を見る事が出来なくなりました。以来銅像の再建を多くの人々が望んでおりましたが、平成19年(2007年)4月17日総高5.2mの銅像が境内に再建完成致しました。今回の像は旧像の写真を元に大きさや姿を踏襲し、一部現在の学問的な時代考証に矛盾する部分には修正を加えました。製作は日本彫刻界の第一人者で、日本芸術院会員・文化功労者の中村晋也氏に依頼し、文化的価値をもった旧像の復元となりました。大阪城の城主であり、大阪の基礎を築かれた秀吉公の銅像が出来ました事は、当社の活性化は勿論、大阪城また大阪全体の活性化の一助になる事と思います。


・・・「秀石庭」が重森さんの作庭であることを知りながら、じっくり観察できていなかったので、再訪しました。