気になる場所へ(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・安治川沿いでもっとも目立つのが、


めだ1


◆大阪市中央卸売市場本場

553-0005大阪市福島区野田1-1-8606-6469-7955

野菜、果物、水産物などの市場が形成されたのは、豊臣秀吉が大坂城を築城した頃からであり、以来、江戸時代を経て発展し、昭和の初期まで盛況を呈した大阪の名高い市場として、天満、ざこば、靱、木津、難波などがありました。第一次大戦が終わった大正7年頃は、経済情勢が不安定であったため、物価への影響を危惧した大阪市は、大正7年4月に公設小売市場を設置し、日用品の廉売と物価の安定を図りました。同年7月に起きた「米騒動」は、国民の食生活に影響が多大であったことから、国は、その対策を検討することになり、生鮮食料品の取引の正常化、適正な価格形成を目的として、大正12年3月、中央卸売市場法を制定しました。これを受け、市民の食生活安定のため、中央卸売市場の開設が必要であると判断した大阪市は、水陸運ともに至便な福島区野田を最適地として決定、全国に先がけて大正14年3月に国の認可を得て着工し、当時東洋一を誇る堂々たる総合市場として、昭和6年11月11日に現在の中央卸売市場本場が敷地面積約126,000平方メートルで開場しました。この開場と同時に従来から繁栄していた私設卸売市場については、ほとんどが収容され、開場後1年間(昭和7年)の取扱量は39万トンに達しました。また、第二次大戦終戦直後の統制中は、生鮮食料品の集荷配給機関として本来の市場機能を一時中断しましたが、統制の解除とともに、昭和25年5月から仲買制度の復活など再び本来の市場の姿に戻り、取扱量も45万トンまで回復しました。昭和39年には、本場の取扱量も開場当時の2倍強の82万トンを超え、その後も毎年1割近くの増加を示し、昭和45年に120万トンに達したことから、取扱量の増加や自動車輸送の激増に対処し、また、老朽施設の改善と狭あい・過密打開のため、拡張整備事業(現在の市場西棟)を実施し、昭和50年11月に果実・乾物等の部門を、昭和51年2月に漬物売場をそれぞれ移転しました。しかし、本場開場から60年余を経て、施設の老朽化が著しく、耐震構造の施設への建替えや、生鮮食料品等にかかる流通環境の変化や多種多様な消費者ニーズ、情報化の進展への対応が求められていたことから、食品流通の基幹的役割を充分果たすことができる機能を有するとともに、環境対策や衛生面に配慮した廃棄物の処理施設等を備えた近代的な市場をめざし、平成元年度より抜本的な施設整備事業に着手しました。平成4年9月に業務管理棟が竣工し、その後引続き市場棟(現在の市場東棟)及び関連棟の工事を進め、足かけ10年に及んだ現地建替が平成14年11月に完成しました。新しい施設は重層構造で売場面積は日本最大となり、西日本の基幹市場として今も生鮮食料品流通の要としての役割を担っています。


・・・福島区野田界隈は、古き良き大阪の匂いが残っている場所です。


めだ2


大阪歯科大学発祥之地碑大阪市福島区野田4丁目野田緑道

【参考】平成23年10月11日(火)午前10時、創立100周年記念事業「発祥の地記念碑除幕式」が野田4丁目の野田緑道(公園)において、本学はじめ関係者約40名の出席のもとに執り行われました。除幕式は、川添堯彬本学理事長・学長の挨拶、下村錢三郎常務理事の経過報告に続き、野田恵美須神社により除幕の神事が執り行われました。記念碑の除幕は、本学の川添理事長、下村常務理事、田中昭男常務理事のほか、記念碑建立にご尽力いただきました山本剛史福島区長、柳川秀樹前福島区長、村岡健史野田4丁目町会長の皆様により行われました。創立100周年の記念碑とともに、本学の創立者藤原市太郎を顕彰する「学校経営事業は営利に非ず、博愛公益のために努力するものなること」と記した碑文も建立しました。このたびの発祥の地記念碑設置にあたり、ご推薦をいただきました福島区長様、地元野田4丁目町会の皆様のご支援に感謝いたします。


・・・「ざこば」って響きは、素敵ですね。


めだ3


◆「中之島GATE」

中之島の両岸を流れる堂島川、土佐堀川が合流し、大阪湾へと流れる安治川。この安治川沿いにあるのが中之島GATEです。中之島の西部にあるこの流域は、川と海からの玄関口(GATE)であり、大阪開港の地でもあります。将来、「インナーベイ・マーケットリゾート」をめざすエリアとして、水都大阪フェスでは、中央市場が立地するロケーションを活かしつつ、ウォータースポーツ体験を提供するほか、音楽ライブや巨大なパブリックアートを通じて、ウォーターフロントのダイナミックな風景と活気あるマーケットのにぎわいを魅力的に演出します

めだ4


船津橋

元禄中期以降に架けられたものと思われる。湊橋は小倉藩の蔵屋敷のすぐ西側に架けられ、船津橋も中之島をはさんでほぼ同じ位置に架けられたが、のちに少し西側(下流側)、新しい築地のほぼ中央部と福島を結ぶ位置に移動されたものと思われる。江戸時代の橋の規模は「地方役手鑑」や「米商旧記」が詳しく、船津橋は四三間半一尺(86m)、幅員二間(3.9m)の規模をもっていた。明治18年の大洪水では大きな被害を受けた。堂島川では上流からの流材によって堂島大橋が落ち、船津橋は橋のかたちを残したまま下流へ流され、それらがすべて安治川橋に引っかかって水を塞き止める形になった。そのため、周辺の民家の被害が大きくなったと言われている。下中之島の橋が近代化されたのは市電事業によってである。大正5年に市電西野田線が中之島西端部で九条中之島線と連絡するようにつけられたが、この事業によって今までの船津橋のすぐ下流に新しい船津橋が大正3年に鋼桁橋で完成した。戦前から進行していた西大阪一帯の地盤沈下は戦後になってさらに拍車がかかり、台風時の高潮によって大きな被害を受けることとなった。このため戦後、高潮対策事業が実施されたが、この中で橋梁の嵩上げ工事も行われることとなった。下中之島の橋も昭和30~40年代に嵩上げや架け替えが行われている。船津橋も同時期に架け替えられ、橋長76.5m、幅員24.0mの三径間ゲルバー式鋼床版桁の橋になった。

端建蔵橋

江戸時代の中之島には各藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。中之島の西端にも蔵が建てられていたため、端建蔵という地名が生まれたとされている。この地に橋が架けられたのは明治になってからのことである。明治18年の大洪水によって中之島周辺の橋は大きな被害を受けたが、端建蔵橋は橋脚が鉄柱でつくられていたためか、かろうじて残った。端建蔵橋は明治42年に市電の九条中之島線の開通時に架け替えられ、鋼桁橋になった。その後、大正10年に架け替えられたとされるが、詳細は不明である。戦後、西大阪一帯は地盤沈下が大きく、堤防の嵩上げとともに橋の嵩上げ工事が次々に行われた。端建蔵橋は昭和38年に、橋面を約2m持ち上げ、橋体を軽くするためコンクリートの床版を鋼床版に換えられ、同時に耐震性を増すために補助の橋台が造られた。

◆湊橋

堂島川開削と同時に堂島の築地も行われ、元禄時代に堂島と中之島の間に次々と五つの橋が架けられた。これとほぼ同時に中之島西端部に新しい築地が造られ、そこへ新しく湊橋が架けられた。『摂陽群談』には湊橋の説明として、「南は土佐堀2丁目、北は潮屋六左衛門と、湊橋町の街に渉る。このところは中之島の西のはしにあたる。貞享年間に公の命令によって島崎に築地をし、町屋と市店を建て、新しく湊橋町・湊橋ができた」とある。貞享年間に築地ができると同時にとは断定できないが、あまり時をおかずに架けられたことは間違いないと思われる。そのことは、元禄4年(1691年)の地図に、湊橋が描かれていることからも裏付けられる。昭和15年に架け替えられた際、橋の位置は、上船津橋と直線でつながるように決められた。橋の形式は三径間のゲルバー式鋼鈑桁で、橋長は88.5メートル、幅員は11.2メートルであった。現在の橋は、都市計画道路尼崎堺線の拡幅工事によって、昭和57年に湊橋が架け替えられた。新しい橋は、幅員約17mの橋が両側に架かり、中央に阪神高速道路大阪神戸線が高架で通っており、橋の基礎は一体で造られている。




めだ5


◆昭和橋

木津川の分流点に昭和橋が架けられたのは昭和7年のことである。この路線は計画道路梅田九条線(土佐堀通)に当たっており、市電路線でもあった。主橋部には支間長69mのタイドアーチが適用されたが、橋が土佐堀通りから川口へ斜めに渡るため、67度近い斜橋となっているため斜めになったアーチ橋という大変設計の難しい構造となっている。大きな橋体の重量を支える基礎には、軟弱地盤であることを考慮に入れ、長さ22~25mの木杭が、両側で千本以上も打ち込まれている。宮本輝氏の『泥の河』は、この橋の描写から物語が始まっている。

◆小説「泥の河」文学碑

「泥の河」は、宮本輝氏が幼少のころ住んでおられた中之島の西端から西区江戸堀の土佐堀川周辺を舞台とした小説で、宮本氏はこの作品で第13回太宰治賞を受賞し、作家デビューを果たした記念すべき作品です。文学碑には、舞台となった中之島西部の様子が描かれた一節が刻まれています。建立地は、小説「泥の河」の舞台となった場所であるとともに、宮本氏がお住まいであった幼少のころの思い出に残っている風景地ということから決定されました。大阪市西区役所では、江戸堀連合振興町会や一本松汽船株式会社などで構成する「泥の河」石碑設置実行委員会(代表:一本松伸)と協働で、平成23年6月5日(土)午後1時30分から、作家宮本輝氏の代表作「泥の河」の文学碑の除幕式を行います。文学碑は、水都大阪の取組みである「川の駅」活性化の一環として、宮本氏の母校である追手門学院大学からの支援を含む協賛を得て実行委員会が建立するもので、西区では、地域の活性化に寄与するものと考えられることから、建立場所の選定・貸借にあたって支援を行い、大阪市が管理する土地を提供しています。周辺には、川口居留地や大阪開港跡・大阪府庁・大阪市役所江之子島庁舎跡の碑など近代大阪の歴史に触れることができる史跡が数多くあり、西区では、今後、この地を区民のみなさんをはじめ多くの方々に広く知っていただくため、水辺や文学に親しみ歴史を感じる散歩コースとして紹介していきたいと考えています。

【碑文】小説「泥の河」舞台の地

堂島川と土佐堀川がひとつとなり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわるところに三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建藏橋、それに船津橋である。「あそこや。あの橋の下の・・・ほれ、あの舟や」目を凝らすと湊橋の下に、確かに一艘の舟が繋がれている。だが信雄の目には、それは橋げたに絡みついた汚物のようにも映った。「あの舟や」「・・・ふうん、舟に住んでんのん?」「そや、もっと上におったんやけど、きのう、あそこに引っ越ししてきたんや」

宮本輝氏小説「泥の河」の一節より


・・・まさしくここは、「水の都」大阪です。