気になる場所へ(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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河村瑞賢紀功碑

「古川跡碑」横に、「贈五位河村瑞賢紀功碑」と刻んだ巨碑があります


ほり1


元々は淀川の下流を、1684年に幕府の命令で川村瑞賢が水路を開削、安治川と命名しました。堂島川と土佐堀川合流地点です。大正4(1915)年、府知事大久保利武の発意で、安治川沿岸の有志が拠金して建立したもの。いかめしい見事な石は、安治川浚渫のおり河底に沈んでいたもので、大坂城石垣に用いるべく搬送中、あやまって落としたと伝えられています今は、九条島も難波島も堀江川もありません

河村瑞賢(1618-1699)

江戸前期の土木家。伊勢の貧農から身を起こし、土木・材木を請負、ついに江戸屈指の材木屋となった。幕命を受け、奥羽の官米を江戸に回送するため1670年(寛文10)に阿武隈川の河口から江戸へ向かう東廻り航路、1672年(寛文12)に酒田から下関を通り大阪・江戸へ向かう西廻り航路を整備した。航路開拓と同じ頃、河口付近の港では上流から流入する土砂によりしばしば港が閉塞する問題がおきていたが、瑞賢は上流の治山と下流の治水を一体的に整備すべきとの認識を得ていたといわれる。こうした考えは天和3年(1683年)に若年寄稲葉正休が淀川の視察に訪れた際に瑞賢が案内役を務めたことから徐々に幕府上層部に伝わることになり、翌貞享元年(1684年)には淀川河口の治水工事を任されることとなる。こうした中、安治川を開くほか、全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。その活躍は新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』に詳しく、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛されていた。


・・・そして、第二の目的地にやってきました。


安治川隧道トンネル

大阪市此花区西九条2-1大阪市西区安治川1-2

安治川の河口付近対岸の交通頻度が上がってきたため計画されたのが、安治川隧道(安治川トンネル)。昭和10年11月着工、同19年9月15日開通にしました。この開通により安治川筋の源兵衛渡船を初めとして4箇所の渡船が廃止されています。九条側入り口には、「源兵衛渡」という名の交差点があります。総工費は130万円だったそうです(当時)。川底部の隧道延長は80.6メートル。中央部は西側に幅2.4メートルの歩道部があり、東側には車道部4.5メートル2車線が設けられています。トンネルの両側には車用として3.0メートル×9.5メートルの昇降機を各2台(1時間15往復)、人用として1.8メートル×2.3メートルの20人乗り昇降機を各2台(1時間35往復)を用意しています。また、それとは別に人用の幅1.4メートルの階段があります。現在は人用の昇降機のみ深夜時間帯を除いて運転されています。車用ですが、車道を昇降機連絡ではなくスロープ(坂道)連絡する計画が昭和51年に計画され、それに従って翌52年2月から車用昇降機の運転を中止しています。しかしながら、周辺住民の了解が得られず、安治川トンネルスロープ化は保留となっています。


・・・トンネルをくぐるのは「世界館」を確認してから、さらに、安治川沿いを西へと進みます。


ほり2


・・・ありました「世界館」、平成16年(2004)に復活して、もう10周年。大正10年(1921)香川県善通寺市にオープンしてから90年以上の歴史を刻んできました。このような形で継続・存続されることは、とても意義あることだと思います。

ほり3


・・・続いて第三の目的地、とにかくデカイです。


◆安治川水門/大阪市港区弁天6-3-13

日本で最初にできたアーチ型の水門です。台風などで押し寄せてくる大阪湾からの高潮をせき止める働きを持っています。完成は昭和45年3月。アーチ型ゲートの主水門とスイング式ゲートの副水門からなっています。安治川水門の主水門、副水門は共に赤色をしているのが特徴です。主水門の径間は57m、副水門の径間は15mで、航行は主水門側のみ認められているため、有効幅員は55.4mです。主水門の敷居高さはO.P.-4.5m、副水門はO.P.-4.0mです。水門閉鎖時の天端高さは共にO.P.+7.4m。扉体の大きさは各々、幅66.7m×高さ11.9m、幅17.1m×高さ11.55m。重量は主水門530トン、副水門107トンです。閉鎖所要時間は主水門約30分、副水門約10分なので、その他の操作を含め、閉鎖まで約50分かかります。主水門は60kWのモータが2基、副水門は22kWのモータが2基で動いており予備動力として500kVAの発電機が備えられています。

ほり4


・・・道を引き返して、ついに念願のトンネルをくぐりました。


※源兵衛渡し


安治川トンネルが完成するまでは、ここに「源兵衛渡し」と呼ばれる渡しがあった。その名のとおり源兵衛という人が営んでいたことが由来であるが、今でもここの交差点名を「源兵衛渡」というのはその名残である。この付近には10カ所ほど渡しがあったが、その中で最も利用者が多かったのが源兵衛渡であった。大正から昭和にかけてはその利用者が年間300万人以上に達したほどで、折からの工業化の進展に伴う交通量の増大も含めて、これに対処するために大阪市の第二次都市計画事業の一つとして、ここに海底トンネルが造られることになった。橋の架設は大型船の航路を確保するために水面からの橋の高さ(桁下)を確保する必要があり、当時としてはその技術が無かったのである。


ほり5


・・・。川の下をくぐっているという実感はまったくなく、なんかアッという間の出来事でした。そして、大阪市此花区西九条2-1に出ました。目的を果たすことができましたので、これから安治川沿いの史跡などをゆっくりとFWしたいと思います。