ぶらり中高野街道(松原版)8 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・松原にも「王仁博士」にまつわる史跡(伝説)があるというので、見過ごすわけにいかず岡2丁目まで引き返しました。

王仁の聖堂址出岡弁財天」/松原市岡2丁目7

古代史家の塚口義信さんは「伝説というものは、内に何か核となるべきものがあって、それがこうあってほしいと願う伝承荷担者や時代の要請に応じて、雪ダルマ式に形づくられていくものではないか」といっています。松原の伝説のなかで、古代史上、有名なもののひとつに王仁の聖堂の言い伝えがあります。『日本書紀』によると、応神が大王のころ、朝鮮半島の百済から学者の王仁が大和王権に招かれました。王仁は応神の太子である菟道稚郎子の師となって、太子に典籍を教えたとあります。一方、『古事記』では、王仁は和邇吉師と記され、孔子の『論語』十巻、『千字文』一巻を貢進したと記されています。王仁の渡来は4世紀後半ごろと思われますが、『日本書紀』『古事記』とも王仁は西文氏の祖と伝えています。


わに1


西文氏は56世紀半ばにかけて大和王権内で文筆専門の氏族として活躍しました。現在の羽曳野市古市に居住し、いまも法灯を続ける西琳寺(古市2丁目)を氏寺としていました。こうしたことから、江戸時代以後、儒学が盛んになるにつれ、王仁はわが国学問の祖としてあがめられるようになりました。

とくに、大阪は王仁に関する伝承が多く、枚方市藤阪には王仁墓が建てられています。

また、大阪市北区大淀北には王仁を祭神とする八坂神社が鎮座していましたし、高石市の高石神社も元来は王仁を祀っていました。

江戸時代の享保20年(1735)、並河誠所は、旧跡を踏査して『河内志』を著しました。同書の丹北郡の項に「聖堂池は新堂村にある。父老が言うには、池の傍らにかつて聖堂があったので池名となった。いま宗像を安置した祠が祀られている」と書かれています。聖堂池は、いまでは清堂池と書き、岡1丁目に所在します。池は中堤で分けられ、西側を清堂池、東側を宮ノ池とよびかえています。池の南側は埋めたてられて松原第中学校が建っています。中前は、池に突き出た岬状となっており、そこに出岡弁財天が祀られています。『河内志』にいう祠とは出岡弁財天を指すのでしょう。清堂池の所在する出岡は岡の分村ですが、同池は新堂地区の水田灌漑用として活用されています。聖堂は、孔子を祀る堂です。わが国で孔子を祀ることが始まったのは大宝元年(701)のことですので、王仁が聖堂を建てた事実は不確かです。しかし、ここに聖堂があったと江戸時代以後、伝えられてきた背景には、当地の人々が河内に教育者王仁を顕彰し、学問を広めたいという願望があったからではないでしょうか。清堂池から西南一帯は清堂遺跡とよばれる旧石器時代から近世に至る複合遺跡です。市内でも、最も古くから開けた土地柄なのです。


・・・この清堂池以外にも、松原市には多くの池があります。


わに2


◆鯉野池オアシス広場/580-0017松原市柴垣1丁目

池面に水鳥が浮かび、中の島に羽を休める野鳥。目を水中に向けると、色鯉が泳いでいます。池の廻り380メートルの散策路を何周もウォークする人。浮見堂や展望デッキで語る人―柴垣1丁目の鯉野池の風景です。鯉野池は、住宅地に囲まれた真ん中に身近に水辺を感じられる市民の憩いの場となっています。平成に入って、大阪府では各市町村と連携して、都市に不足する「緑」と「潤い」を求め、ため池を利用して水と緑の調和した快適な環境づくりのためオアシス事業を進めています。現在、府内では30ほどの池が整備されていますが、松原でオアシス構想の第1号となったのが鯉野池でした。平成8年度から工事が始まり、11年3月に完成しました。河内松原駅から中高野街道を南下し、新堂側に設置された待機信号を東に入った上田第1会館の南に親水広場が広がっています。池の北入口には、「鯉野池由来記」(平成11年3月)が建っています。現在、鯉野池は柴垣に町名変更されましたが、江戸時代以降は松原村上田に所在し、柴籬神社周辺や中高野街道西側の新堂の田畑を潤してきました。文禄3年(1594)から延宝5年(1677)までを描いた上田・新堂・岡からなる「松原村絵図」(岡・松永修氏蔵)に、鯉野池が見られますので、近世初期までにはできていたのでしょう。宝永2年(1705)6月の「河内国丹北郡松原村明細帳」(松永氏蔵)は、松原村に11か所のため池があったと記しています。「ひのか池・松室池・細か池・清堂池・新池・しりの池・下之池・今池・かうしか池・鯉之池・寺池」です。ひのか池は上田墓地南側の樋野ヶ池、松室池は松原東小に利用、細か池は河内松原駅前ゆめニティまつばらに利用、清堂池は松原六中北側、新池は増池ともよばれて岡公民館に利用、しりの池は岡の309号線沿いの尻の池、下之池は松原小に利用、今池は新堂に所在、かうしか池は大塚山古墳西側の小治ヶ池、寺池は上田の長尾街道沿いの池です。鯉野池は、「松原村明細帳」に「壱町五反五畝五歩」「長九拾三間六寸」「横五拾間」とあります。享保14年(1729)ごろの、「河内国丹北郡松原村庄屋手控帳」(松永氏蔵)にも、「北堤四拾三間」「西堤百三拾六間」「東堤九拾四間七尺」「南堤弐拾六間七尺」と記し、樋が「五ツ」あるとします。今では北堤が上田第一会館や広場に転用され、現在の水面積は6,600平方メートルですので、江戸時代よりは狭くなっています。埋め立てられた北堤址には、池の守り神「水天龍王大神」の祠や2体の北向き地蔵尊も地元の人々によって祀られています。鯉野池は今では潤す田畑が少なくなり、樋も2つに減りましたが、町会や水利組合などで構成する鯉野池維持管理委員会の下、地域に親しまれるオアシス広場となっているのです。

・・・なかなか素敵なオブジェです。


わに3


【参考】日本基督教団河内松原教会580-0017松原市柴垣1丁目21-18

明治七年(1874)、アメリカ人宣教師のゴルドンらは、大阪初のプロテスタント教会である現在の日本基督教団大阪教会(大阪市西区江戸堀)を設立しました。ゴルドンは、同志社を創立した新島襄や妻の八重に英語を教えたことで知られています。三年後の明治十年(1877)、アメリカ人宣教師などの助力を受けずに、沢山保羅ら日本人だけによって、

わが国で最初の自給教会である浪花公会も大阪市中央区高麗橋に誕生しました。同公会はのち、日本基督教団浪花教会となり、現在のレトロな建物は昭和五年(1930)、著名なアメリカ人建築家のヴォーリズが設計・指導したものです。ゴシックスタイルで、大きなアーチ窓のステンドグラスが印象的です。ところで、浪花教会は昭和二十七年(1952)、当時の新堂町であった柴籬住宅(の中に、新しく牧師館を購入しました。柴籬住宅は昭和初年から、大阪市北区の小谷工務店が開発したものです。戦後も、大阪府の分譲で広げられ、河内松原駅南部の住宅地として発展してきました。柴籬住宅の真ん中を南北に走る、いわゆる「さくら通り」の西側に柴垣会館(柴垣一丁目)がありますが、浪花教会の牧師館は会館横の通りに面した東側に建てられました。大阪の浪花教会には敷地内に牧師館が無かったことから、当時の浪花教会牧師の三井久は、柴籬住宅の自宅から、高麗橋にかよったのです。同時に、三井牧師宅では、近くの人々が集まり、子供会や家庭集会も行われました。三井牧師が松原に移ってきた頃、市内にはキリスト教会はありませんでした。そこで、前号の通り、昭和三十年(1955)、加藤貞治と歌手の渡辺はま子夫妻が所有していたドイツ館を購入して、河内松原教会が設立されたのです。河内松原教会は、翌年に初代牧師が赴任するまで、三井が浪花教会牧師をつとめながら、兼任牧師となりました。その縁で、初期の頃は、浪花教会から礼拝堂の長椅子や聖餐式用具の寄贈を受けています。ただ、河内松原教会のスタートは浪花教会の三井牧師館が契機になったといえますが、浪花教会の伝道所ではありません。教会が柴籬に出来るまで、信徒さんは浪花教会や大阪教会・南大阪教会(大阪市阿倍野区)・阿部野教会(同区)などの会員でしたが、やがて河内松原教会へ移られたのです。ですから、柴籬の信徒さんが中心となってできた教会といえるでしょう。昭和三十一年(1956月、南大阪教会牧師であり、同志社大学学長をつとめていた大下角一が教会を訪れ、特別伝道集会が開かれました。大下は明治初期、熊本バンドの一員で、新島襄が新設した同志社英学校に移った海老名弾正の娘あやを妻とし、海老名のリベラル神学の影響を受けた人物として有名です。三井は、大下に河内松原教会への伝道師派遣を委ねたかったのですが、大下は多忙のため叶いませんでした。それでも、大下は柴籬住宅の信徒の家族に洗礼を与えたこともありました。「さくら通り」東側にあった浪花教会牧師館は、のちに三井の転出とともに建て直されました。「さくら通り」の愛称は、南北の通り350メートルの両側に、数十本の桜が植えられているからです。柴籬住宅では、戦前から通りを利用して隣組対抗の運動会などを行い、親睦をはかってきました。通りは、大阪府国民健康保険団体連合会の生活習慣病予防のための「ツールド大阪/まつばらウォーキングコース」となっています。オアシス広場の鯉野池や教会周辺を歩かれてはいかがでしょうか。


◆栄久寺/580-0012松原市立部1-4-8

2013年4月2日から4日まで、真宗本廟(東本願寺)で、東本願寺を創立した教如上人の400回忌法要が厳修されました。教如は永禄元年(1558)、今の大阪城の場所にあった大坂本願寺で生まれました。教如は大坂本願寺が織田信長と十年にわたって戦った石山合戦で、父の顕如の大坂退出後も、最後まで抗戦したものの、大坂を退きますが、その折、立部一丁目の栄久寺に立ち寄ったと伝えられています。天正8年(1580)のことで、その縁から、栄久寺には河内国の門徒衆や坊主衆に宛てた教如23歳の石山合戦における心情を述べた手紙が残されています。この頃の教如直筆の書状が残っていることは少なく、貴重なものです。このため昭和16年には本堂前に、東本願寺23世彰如の揮毫になる「教如上人旧跡」の石碑が建てられました。教如は顕如の死後、文禄元年(1592)に本願寺12世となりますが、翌年、豊臣秀吉の命により、弟の准如にその職を譲りました。しかし、慶長7年(1602)、徳川家康によって、京都の今の東六条に土地の寄進を受けて東本願寺を創始し、ここに本願寺東西分派となったのでした。市域には、現在、50カ寺ほどの寺院がありますが、このうち33カ寺が浄土真宗です。その中で、24カ寺が東本願寺を本山とする真宗大谷派、9カ寺が西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派です。教如は慶長19年(1614)、57歳で亡くなりますが、栄久寺には東本願寺14世の琢如が万治4年(1661)に下付した「教如上人真影」が祀られています。栄久寺は、17世紀中ごろに今のような寺観が整ったようです。同寺には、文政10年(1827)、立部村の領主であった秋元但馬守に提出した「栄久寺本堂再建届書」の写しが残っています。その文書によると、文政10年当時の本堂は慶安4年(1651)の建立でした。そして、慶安の本堂完成と共に、万治4年に教如の真影が与えられ、同時に親鸞聖人の御影も下付されています。琢如は、翌寛文2年(1662)にも三朝高僧の真影や聖徳太子の真影を下付しました。本尊の阿弥陀如来像は、15の常如が延宝5(1677)に下付したとあります。ただ、『八尾別院史』には、木仏寺号は明暦3年(1657)に下付とありますので、慶安本堂建立の数年後に本尊が与えられたと理解したほうがよいでしょう。文政10年になって、新本堂の再建が始まり、完成は天保7年(1836)3月でした。当時の住職は聞鏡。大工棟梁は、丹南村の山本吉兵衛義久と新堂村の村田清兵衛で、立部村の隣村の大工があたりました。現本堂は、平成2年に修復されましたが、内陣や外陣は天保7年上棟当時のものです。中央の欄間には、ひのきで彫られた天女が舞い、鳳凰が飛びかっています。裏側には「彫物師 相野伊兵衛直之」と記されています。相野伊兵衛は、天保3年(1832)の『浪華買物独案内』という書物にも紹介された有名な彫物師で、今の大阪市中央区の安土町心斎橋西入に居住していました。天保14年(1843)に再建された来迎寺(丹南3丁目)の山門に飾られた彫物の作者とも考えられています。来迎寺本堂は元文2年(1737)に補修されますが、この時の大工も丹南の山本氏と新堂の村田氏でした。栄久寺では、昭和16年に来たるべき教如上人350回忌に先がけて、教如の顕彰碑を建立したことが記録に残っています。本年の400回忌を契機に、東西本願寺の歩みに触れることが増えるでしょう。



わに4


◆西除川遊歩道

市域を南北に流れる西除川に、全長4キロにおよぶ遊歩道が設けられています。狭山池から流れてきた西除川は岡7丁目の松原市民運動広場をすぎると、聖堂橋をくぐります。散歩道はこの右岸から始まりますが、ここに合流する清堂川沿いの「ツール・ド・大阪、まつばらウォーキングコース」を引き継いでいます。トリム広場を経て、河合・高見の里へ川下に進んでいくと、府道大和高田堺線と 交差する新布忍橋に至ります。コースはここから左岸に変わります。布忍神社の前では、江戸時代の「布忍八景絵馬」(「歴史ウォーク」71)を模した八景広場が見られます。しばらく北流しますが、流路は北新町4丁目と天美南5丁目に架かる高木橋の地点で、大きく西にカーブします。道路をはさんで、旧油上・芝・堀村の天美中央共同墓地があります。川はこのまま西流して天美我堂7丁目の「天道の河原」と呼ばれるモニュメントを通ると、堺市に入り、JR浅香駅の西で大和川に合流するのです。遊歩道には、バラ・クチナシ・ハマナス・ツツジやサルスベリ・松・桜も植えられ、四季折々の花や樹木が楽しめます。まさに、市民のプロムナードといえるでしょう。しかし、今でこそ西除川は堀と高木の所から西流していますが、江戸時代中頃までは下高野街道の東側を北流して池内村や城連寺村を経て、大阪城付近まで達していました。天美より北では天道川とも呼ばれました。先の「天道の河原」もこの名に由来します。宝永元年(1704)10月、柏原から北流していた大和川が西へ付替えられ、天美を経て堺浦へ流れるようになりました。このため、西除川は新大和 川に妨げられ、北へ進めなくなったのです。新大和川は河底を掘り下げてつくったのではなく、堤防を盛り土する工法を用いたため、南から流れてきた西除川 は、そのままでは高い堤防が邪魔になって、大和川に流れることができませんでした。そこで、西除川を大和川の水位の標準と合わせるため、西除川も大和川と並行して西流させ、深い堀割りになっていた浅香で水準を合わせる工夫をしたのでした。宝永元年6月28日、幕府は大和川の付替えの付帯工事として、高取藩(奈良県)の植村家敬と柏原藩(兵庫県)の織田信休に西除川の切違いを命じました。この結果、城連寺村などには水が流れなくなりました。村では、旧川床を利用して富田新田を開墾することにしました。しかし、川底であったため荒砂が 多く、また、大和川付替えと同時につくられた落堀川もたびたび洪水をおこしたので、耕作条件の悪い土地でした。大和川の付替えは、西除川の切違いを余儀なくしたように、流域の人々にさまざまな影響を与えたのでした。


わに5


◆河合神社/松原市河合3丁目

本市南部やその周辺には、丹南・丹上・丹下・多治井(丹比)などの町名がみられます。これらの地名は、当地が8世紀初頭までに設けられていた丹比郡に含まれていたことに由来します。丹比郡は、やがて平安時代後期に丹北・丹南・八上の3郡に分割されました。  その後、明治29年になって丹北郡は中河内郡、丹南郡・八上郡は南河内郡に改編されます。その際、市域の大部分は丹北郡でしたので中河内郡になりましたが、丹南は丹南郡、河合は八上郡のため南河内郡に属しました。このうち、市域の歴史のうえで、八上郡についてはあまり触れられないようです。これは、八上郡の大部分が現在の堺市北東部や美原町北西部にあたるからでしょう。旧の北八下村・南八下村・金岡村の地域です。河合は、北八下村の北東部を占めていました。西除川左岸の河合は、弥生時代の石器が数多く出土したり、飛鳥時代から奈良時代の大溝や掘立柱建物が検出されるなど、古くから集落が形成されていました。歴史上では、豊臣秀吉が天正11年(1583)8月1日に福島正則に与えた知行の一所に「河州八上郡内河合郷」とみられるのが有名でしょう。天下人を目指した秀吉が統合した地域に施行した太閤検地の目録です。さらに、秀吉は文禄3年(1594)11月、長束正家を検地奉行として河内国で太閤検地を行いました。河合でもこの時の太閤検地帳が残っており、「八上郡内河合村御検地帳」とあります。河合は昭和32年、松原市に合併されましたが、今も同地が旧八上郡と結びついているものに、氏神の河合神社の祭祀をあげることができます。同社は、河合3丁目の鎮座地に江戸時代中期の元文5年(1740)8月16日、「牛頭天王宮」と刻まれた手洗石が残っているように、素盞鳴命を主神としています。近代に入って、明治政府は神社合祀策を断行します。この結果、河合神社も他の旧八上郡内の神社と同じく、明治41年(1908)4月23日に金岡村(現堺市)の郷社であった金岡神社に合祀されることになりました。以後、河合は金岡神社の氏地となり、金岡神社の宮司が祭祀を行うようになったのです。現在、社地には拝殿や鳥居が新築され、祭神も戻されています。また、10月の秋祭りには「だんじり」が町内を巡行します。地域住民の熱意の現れでしょう。今も河合神社は、金岡神社と関わりながら旧八上郡鎮座の産土神の伝統を受け継いでいるのです。


・・・まもなく「秋祭り」です。