ぶらり中高野街道(松原版)6 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆【ふるさとぴあプラザ「郷土資料館」】◆

580-0016松原市上田7丁目11番19号072-336-6800

199311月、松原の名の由来ともなった柴籬神社北隣に、文化・教育・情報の交流拠点として建設された施設です。


ふる1


日本列島に人類が住み始めたのは、宮城県築館町の高森遺跡で出土した石器の年代から、なんと50万年ほど前のことといわれています。北京原人と肩を並べる古さです。ところで、大阪にはいつごろから人々が住むようになったのでしょうか。松原のお隣、藤井寺市藤ヶ丘の藤井寺郵便局近くに近鉄バファローズ2軍監督の梨田昌孝さんのお宅があります。1985年、梨田さんが新居を建てようとしたところ、2万年ほど前の旧石器時代に住んでいた人々の住居跡や墓と思われる土壙がナイフ型石器などとともに見つかりました。これは、現在のところ大阪で人々が住んでいた最も古い遺跡と考えられています。調査を担当した大阪府教育委員会は、この遺跡を「はさみ山遺跡梨田地点」と名づけました。大阪にはこれ以外にも、住居跡こそ見つかっていませんが、多数の旧石器時代遺跡が発掘されています。特に藤井寺市や羽曳野市は、府内でも有数の旧石器時代遺跡密集地として有名です。松原市では、今のところそれほど多くの旧石器は出土していませんが、次のような遺跡から旧石器が発見されています。


ふる2


1、天美西7丁目の今池処理場建設で知られた大和川今池遺跡、2、岡7丁目の松原市民運動広場建設で見つかった清堂遺跡、3、岡2丁目の府営岡住 宅の建て替えで見つかった岡遺跡のもので、後期旧石器時代のナイフ型石器・刃器・掻器です。これらの石器は、ものや動植物を切ったり削ったりするのに用い られました。また、有舌尖頭器とよばれる手槍や投槍の尖端につけた先のとがった石器も市役所新庁舎の建設の際に出土しています。ここは上田町遺跡の一角にあたります。縄文草創期のものとされていますが、一部には旧石器時代にまで下るという意見もあります。さらに、中央環状線と国道309号線が交差する丹南2丁目の高架工事の際にも、旧石器の剥片が見つかっています。2万年ほど前、はさみ山遺跡などで生活していた旧石器時代人が、鹿や兎などの獲物を追って、松原の原野をかけめぐり、旧石器を残したと想像するのも楽しいものです。河内松原駅の東南、上田7丁目の柴籬(しばがき)神社北側に「松原市民ふるさとぴあプラザ」があり、その一階に「松原市郷土資料館」が設置されています。市内出土の遺物や絵図・古文書などが時代ごとに展示されています。この東側のケースの右端に旧石器・縄文時代のコーナーがあります。そこには、大和川今池・清堂遺跡などから出土した旧石器が並べられています。


ふる3


企画展大和川付け替え展

大和川の付け替えについて、古文書や絵図から当時の様子をうかがいます。


ふる4


◆来迎寺/580-0013松原市丹南3-1-22

融通念仏宗は、平安時代後半の天治元年(1124)に京都・大原の天台僧、良忍によって開かれました。良忍が大治2年(1127)、摂津の平野(大阪市平野区)に建てた大念仏寺を本山としています。天承元年(1131)、良忍は念仏の教えを広めるため、市域南端の丹南に阿弥陀如来を安置する堂を建て、融通念仏十ケ郷辻本大勧進阿弥陀寺と号しました。時の鳥羽上皇や崇徳天皇は、良忍に帰依していたことから、融通念仏の教えは各地に広まったのでした。しかし、良忍の死後は衰退し、大念仏寺や阿弥陀寺などの堂塔も壊廃していきました。そこに鎌倉時代末期、現れたのが法明でした。法明は、元亨元年(1321)、大念仏寺第7世となり、融通念仏宗を復興しました。続いて法明は、良忍の聖跡と伝える阿弥陀寺が荒れるのを惜しみ、近くの菅生神社(南河内郡美原町菅生)より感得した阿弥陀如来画像を勧請して、同寺を中興したのです。そして、正中元年(1324)、阿弥陀寺から河内十箇郷六本別寺諸仏山護念院来迎寺と寺号を改めました。これが、丹南3丁目の中央環状線南側に寺域を占める来迎寺の来歴です。この時、法明は来迎寺中興とともに、法明寺(大阪市平野区喜連)、良明寺(奈良県生駒郡平群町久安寺)、極楽寺(河内長野市古野)、大念寺(南河内郡河南町大ケ塚)、高安寺(八尾市水越)の各寺も開基したのです。のち、来迎寺などこれらの6ケ寺は融通念仏宗の中本山となりました。来迎寺は江戸時代以降、河内国丹北・丹南・八上郡、および摂津国東成・西成・百済・住吉郡にある36ケ寺をまとめたのでした。来迎寺には、今も法明の大衣が寺宝として残されています。また、境内墓地には法明の供養塔が歴代住職の墓塔と並んで祀られているのです。2009年の24月、来迎寺東側のゴルフ練習場跡が市教委によって発掘調査されました。そこは、江戸時代、高木氏の丹南藩1万石の陣屋のあったところです。調査では、陣屋遺構とともに、その下層から室町時代後半の「来迎寺」と刻した軒丸瓦と鬼瓦が検出されました。江戸時代以後、陣屋の建設に伴い、寺域が西に移動した可能性があります。融通念仏宗は河内や摂津・大和で隆盛をみましたが、本山の大念仏寺の上人(貫主)に松原出身の僧が3人も名をとどめています。室町時代の大永元年(1521)に29世となった三宅村の法融上人。続いて享禄2年(1529)に30世となった丹南村の道阿上人。桃山時代の文禄5年(1596)に34世となった布忍・高木村の宗圓上人です。市域には、他にも融通念仏宗寺院として宝泉寺(清水・南新町6丁目)、西方寺(三宅中5丁目)、浄光寺(新堂3丁目)、大念寺(西大塚1丁目)があります。各寺は、寺伝によればこの時、法明によって開かれたといわれています。


ふる5


◆丹南天満宮/580-0013松原市丹南3丁目6-648

丹南三丁目に鎮座する丹南天満宮本殿は、桃山時代の様式を残した江戸時代初期の建立として知られています。現存する市域の神社本殿の中でも、最古級の一つです。三間社流造りで、屋根は檜皮葺、全体に丹塗りを施し、東面しています。元文五年(一七四〇)四月に書かれた「丹南村明細帳」には、祭神は天神・天照大神・春日大明神とあります。天神、つまり菅原道真をはじめ、皇祖神の天照大神、中臣氏の祖で春日神である天児屋根命を祀るのです。当時の境内は「東西参拾五間、南北拾五間」とあり、本殿屋根は瓦葺に変えられ、神主はいないと記されています。昭和五十四年(一九七九)に本殿の解体修理工事が行われましたが、この時、北側面の浜床の縁板底に、享保八年(一七二三)三月の大工墨書が見つかり、床などの修理が行われたことがわかりました。さらに、幕末の安政二年(一八五五)には、本殿の彩色をきれいに塗り変えたという棟札も見つかりました。昭和の修理に際して、その時の瓦葺から、創建当初のものと考えられる檜皮葺に戻されました。しかし、三十年経って檜皮の傷みが激しくなったことから、平成二十二年九月に檜皮が葺き替えられ、今見るような姿によみがえったのです。ところで、丹南天満宮で特筆されるのは、古建築の本殿だけではありません。境内入口に建つ石鳥居は「延宝七巳未年」と刻まれ、江戸時代前半の延宝七年(一六七九)に建てられています。これも現存する市内の石鳥居の中で、最古級のものです。他にも、末社の稲荷神社前には天明五年(一七八五)の石鳥居があります。延宝鳥居の横には、一列に七基の石灯籠が並べられ、壮観です。南側から「天満宮 御神燈」(二基)、「天照皇大神宮 神燈」、「愛宕山大権現 神燈」、「金毘羅大権現/常夜燈/享和元酉年九月」「秋葉山大権現/常夜燈/享和元酉年九月」「大神宮/常夜燈/村内安全/文久三亥年十一月吉日」と見られます。現在、天満宮境内は玉垣で囲まれていますが、以前は鳥居の両側は土塀が続いており、石灯籠の多くは、土塀に沿った東側道路に並べられていました。享和元年(一八〇一)の二基の石灯籠は、水の神様である金毘羅大権現と、京都の愛宕山大権現と同じく、防火の神様である秋葉山大権現を祀っています。また、天照大神を祀る「大神宮」の伊勢燈籠は、幕末の文久三年(一八六三)の建立で、「村内安全」のシンボルとなる常夜燈だったのでしょう。これらの石灯籠には、暗くなると火がともされ、丹南村の氏子たちの安全を見守ったのでした。ちなみに、享和元年という年は、瓦葺であった旧拝殿(本殿と同時に解体)の鬼瓦に「享和元辛酉歳 正月吉日」の銘がありますので、同年にも拝殿が修理され、石灯籠も奉納されたのです。拝殿前には、一対の石造狛犬が安置され、台石に「文化八辛未歳八月吉日/氏子中」と刻むように、文化八年(一八一一)の作です。各時期ごとに、氏神が守り続けられているのです。