◆松原南図書館前「道標」/580-0014松原市岡5-11-19
河内松原駅前西側をなおも南下すると、岡5丁目の竹内街道と交わる松原南図書館前に出ます。入口には、寛政9年(1797)6月、「いせこう中」が建てた「左さやま 三日市 かうや道」「右ひらの 大坂道」「左さかい道」と彫られた道標があります。ここも、丹南茶屋とよばれ、いまもその面影を残す二階建物が南西角に見られます。
◆大師堂/松原市岡5丁目4
京都の貴族や僧侶たちは、平安時代後半から、弘法大師空海が眠る高野山(和歌山県)に参拝するようになりました。久安4年(1148)6月、仁和寺の覚法法親王は高野街道を通って高野詣をする途中、松原庄で一泊しています。松原庄は、今の上田・新堂・岡あたりです。同道は、大阪市平野区から市域の三宅・阿保・上田・新堂・岡・丹南を南北に結び、ふつう中高野街道と称しています。高野山へは、生駒山西麓の東高野街道や堺を通る西高野街道があるように、三本の道が利用されました。ただし、東・中・西という名称は明治時代以降のことです。江戸時代は高野街道、あるいは高野道とよんでいました。江戸時代中期ごろから、庶民の旅が盛んになりました。中高野街道は、平野区の杭全神社の泥堂口にあった一里塚を起点としています。三宅と阿保の境 にある教育委員会市史文化財係阿保事務所の南側に以前、一里塚がありました。平野から一里(約4キロ)の距離を測り、一里山という小字も残っています。ここから南に行くと、阿保と上田を分ける長尾街道に交差します。堺方面からの旅人でも賑わいましたので、茶屋が設けられ、阿保茶屋とよばれました。
堺へ向かう竹内街道を200メートル行くと、空海を祀る大師堂(岡5丁目)が建っています。もともとは増池の東畔にありましたが、池の半分は埋められ、岡公園となっています。大師堂の創建は未詳ですが、高野山大円院より招請したという空海坐像・不動明王立像・板彫千手十一面観音立像が安置されています。密教様式の厳しい表情が特徴です。境内には、室町時代の阿弥陀如来坐像2体も祀られています。大円院と関わりがあるのは、大師堂に長く住持した神田覚栄師が大円院で修行をされたからです。覚栄師は、幕末の嘉永5年(1852)生まれ。昭和18年(1943)に亡くなるまで、地域の大師信仰を支えてきました。戦後以降、大師堂は岡の観音講によって守られています。いまも、毎月18日の「観音さん」、21日の「お大師さん」、28日の「お不動さん」の日 の詠歌をはじめ、毎年4月21日には大円院より僧侶がこられ、護摩が焚かれます。
◆岡4丁目・中高野街道と竹内街道分岐点「道標」
2009年春、『松原市史』近現代編が刊行され、40年ほどかけてこれまでの前近現代編や史料編とあわせて全5巻が完結しました。その間、市域をくまなく調査し、新しい知見が多く得られました。しかし、今回一般に知られておらず、全く予期しなかった新発見がありました。それは、岡4丁目の岡澤將晃さん宅で見つかった中高野街道と竹内街道が分岐する場所に建てられていた道標の存在です。社寺詣りの旅人を案内したものです。両街道の分岐点では、岡5丁目の松原南図書館角(元位置は竹内街道をはさんだ南西角)にある伊勢神宮の参拝を目的として結成された伊勢講が寛政9年(1797)5月に建てた花崗岩のかまぼこ型角柱(高さ90cm、幅29cm、奥行24cm)が古くから知られていました。「右ひらの 大坂道」「左さやま 三日市 かうや道」「左さかい道」「寛政九丁巳年五月 いせこう中」と記しています。岡澤さん宅を訪れた折、同氏から「こんなもんが庭にありますねん」と教えられ、はじめて道標があることを知りました。石は縦に2つに割られていましたが、次のようなことがわかりました。道標は、図書館角のものと同形式の花崗岩かまぼこ型の角柱で、寸法も文字の書体もほぼ同じでした。各面に「左ふちゐ寺 上太子 やまと道」「左ひらの 大坂道」「右かうや さやま道」「寛政九年丁巳五月 いせこう中」記されていました。ただ、「かうや」と「さやま道」の間は石が欠けており、文字あきが不自然ですので、中央に前述道標と同じく「三日市」と刻まれていた可能性もあります。平野方面からきた中高野街道は、図書館横を南に真っすぐ丹南にのびていますが、これは大正時代後半につくられたものです。もともとは図書館から東に曲がり、東西に走る竹内街道と100メートルほど重なって岡澤さん宅前を南に向かっていました。今も旧道が残っており、その曲り角の南東側に新発見道標が建っていたのです。伊勢講が寛政9年5月に同時に2本の道標を建てたのでした。2基とも高野山や狭山の中高野街道をめざしていますが、新出道標は葛井寺(藤井寺市)と聖徳太子の廟所がある叡福寺(太子町)の上太子や大和地方を銘記していますので、竹内街道を意識したものでしょう。昭和16年生まれの岡澤さんが少年時代の20年代、道標は同所に建っており、それを飛び箱に見立て馬飛びをしていたと話されています。ところが、30年前後ごろ道標は撤去されて側溝の蓋に転用され、その後地中に埋ずもれたようです。のち、長い間忘れられていましたが、平成7年に岡澤さん所有の同地で住宅建設があり、その折に再び道標が掘り出されました。それを同氏が保管されておられたのです。江戸時代後半の貴重な道標として、今後は元の位置に復元され、保存されればこれほど喜ばしいことはありません。
◆柴籬神社/580-0014松原市上田7-12-22
古墳時代中ごろの5世紀前半、反正天皇が丹比柴籬宮で即位したと伝えています。大和王権の宮が、河内におかれた初めての出来事です。松原は、この丹比野の一角にあります。わが国で最も古い歴史書である『古事記』や『日本書紀』によると、反正は仁徳(天皇の第3皇子で、兄履中のあと、18代天皇となりました。この丹比柴籬宮が上田7丁目の柴籬神社のあたりにあったと伝承されています。同社は、反正天皇などを祭神としています。柴籬神社の南門に、「反正天皇柴籬宮址 昭和十九年一月 大阪府建立」の立派な石碑があり、西鳥居前にも「丹比柴籬宮址 大正八年 大阪府」の石碑が建てられています。『古事記』の反正天皇の段には「水歯別命(反正)、多治比の柴垣宮に坐しまして、天の下治めたまひき。此の天皇、御身の長、九尺二寸半。御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉ひて、既に珠(たま)を貫(ぬ)けるが如くなりき。…天皇の御年、陸拾歳ぞ。御陵は毛受野に在り」と記されています。1尺を30センチとすると、反正は身長2メートル77センチもある長身で、その歯の長さも3センチを測るという信じられない数値が見られます。
これは、水歯別という反正の名前から、ことさら歯が立派で、珠を貫いたようにきれいであったと伝えられていたからでしょう。天皇は60歳で亡くなり、いまの堺市の百舌鳥に葬られたとあります。これに対し、『日本書紀』の反正天皇元年条に「冬十月に、河内の丹比に都つくる。是を柴籬宮と謂す。是の時に當りて、風雨時に順ひて、五穀成熟(みの)れり。人民富み饒ひ天下太平なり」とあり、その治世は6年におよび、国内は豊作で平和であったと伝えています。しかし、ここまでが文献学の限界です。あとは、丹比柴籬宮がどこにあったかは、考古学の成果に頼らざるを得ないのです。現在のところ、宮の存在を確かめる遺構や遺物はまだ見つかっていません。当時の宮は、のちの平城京や平安京のように、天皇が政治を行う大極殿や、役人が政務をとる朝堂院などの建物が建ち並ぶ都城ではありませんでした。天皇は宮にいましたが、王権を支える豪族たちは、それぞれの居住地で勢力をもっていたと思われます。ですから、宮跡の検出は容易ではありません。でも、一般の人々の住むたて穴住居や掘立柱建物とは違った突出した宮を想像させるような遺構が、丹比野の地下に眠っていることでしょう。柴籬神社のあたりは、宮号を引き継いだ神社名や、神社西方に残る天皇にゆかりをもつ「反正山」の地名などから、宮跡の有力な候補地であることは疑いありません。同地は、旧石器時代から近世までの複合遺跡である上田町遺跡に含まれます。とくに、古墳時代のたて穴住居や井戸、壺・甕・高坏などの土器、あるいは古墳跡出土の埴輪などが見つかっていますので、今後も宮跡を探すロマンが追い求められるでしょう。
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