ぶらり中高野街道(松原版)4 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆新堂3丁目の道標

新堂の集落内を中高野街道が走っています。この古道が新堂公民館前を通る住吉街道と交差する新堂三丁目には、天保五年(一八三四)の高野山を案内する道標が建っています。「すぐかうやよしの道、右平野大坂道、左さかい住よし道、天保五年」



みち1


道標のすぐ北側には、中野敬さん宅があり、庭ごしに自然石が見られます。表面に中野好松翁「新堂総中 寄附」、側面に「釋宗説 明治四十五年四月」と刻んでいます。新堂の人々によって顕彰された中野好松は、文久元年(一八六一)七月三十日、丹北郡新堂村の同家で生まれました。好松は、現在の阿保・西大塚・西野々・上田・新堂・立部・岡・高見の里・田井城から成る松原村の村会議員を二十一年間にわたって務めた人物です。わが国では、明治二十二年(一八八九)四月に町村制が施行され、当地でも丹北郡松原村が誕生しました。明治三十一年(一八九八)六月には、郡制統合のため、松原村は中河内郡に含まれるようになりました。「松原村吏員及村会議員組合会議員名簿 松原村役場」(松原市蔵)は、明治二十二年の初選挙以来、大正期までの村長・助役・収入役・書記・学務委員・村会議員を記したものですが、これによると、好松の事歴は次のようにあります。明治二十二年四月二十八日に行われた第一回松原村選挙で当選し(定員六名)、二十五年四月十三日の半数改選で退任するまで、三年間の任期を務めました。そして、翌十四日に行われた改選で再選され、三十一年四月十三日の任期満限までの六年間に及びました。続く、三十一年四月二十一日の選挙で、三たび選ばれ、三十七年四月二十日の任期満限まで六年間続けました。さらに、翌二十一日の選挙でも当選し、四十三年四月二十日の満期まで務めたのでした。好松は、議員になる前から教育に熱心で、同じ新堂出身で村会議員となる中野駒蔵らと図って、上田にあった松原小学校を校区(上田・新堂・立部・岡)の中央にあたる新堂に移し、新堂小学校と改名しました(明治二十年四月)。融通念仏宗・浄光寺の東北側、中高野街道沿いの地です。そして、学校に行けない子供たちのために、自宅を開放して、手習いや習字なども教えました。また、地域のつながりを図るため、近くの檀那寺である真宗大谷派の良念寺に大太鼓を寄進し、時報やお知らせの合図に利用されました。同時に、やや小ぶりのものを自宅に備えつけ、「中野好松 村主」と書かれた太鼓が今も中野さん宅に架けられています。好松は、議員を退いた一年余後の明治四十四年(一九一一)六月、五十歳で亡くなりましたが、地域の人々によって、翌四十五年四月に顕彰碑が自宅に建てられたのです。なお、好松が村会議員であった明治二十二年から四十二年の二十年間は、同郷新堂の芝池経太郎(弘化四年十月十五日生)が初代村長に就任以来、連続五期にわたって務めていました。芝池は四十二年八月に亡くなりますが、好松ら松原村議員は、長きにわたる芝池村長の功績をたたえ、翌四十三年九月二十日、新堂墓地(新堂五丁目)に建てられた経太郎の墓の台石に「松原村」の名を刻むとともに、墓石にも「村会議建碑」の銘を入れ、碑文をしたためています。


みち2


浄光寺580-0015松原市新堂3-12-13

江戸時代の初め、丹北郡松原村新堂に井岡玄安(範恒)という医者が住んでいました。井岡氏系図によると、同家は鎌倉時代後半、播磨(兵庫県)を本拠とした有力武将の赤松則村の四男氏範を祖とすると伝えています。永正5年(1508)、氏範の曽孫氏保は播磨から京都・東山の円山に移りました。安土桃山時代に入り、氏保の四代後の氏茂が名医の曲直瀬道三に師事し、医療を始めたといいます。氏茂の五代後が玄安で、新堂に移り住み、松原における井岡氏の祖となったのです。井岡氏宅は、融通念仏宗の浄光寺(新堂3丁目)とは中高野街道をはさんだ真向かいにありました。現在、井岡家は新堂を離れていますが、昭和40年代まで土塀に囲まれ、長屋門を持つ広大な屋敷地が残っていました。玄安は、寛文2年(1662)の生まれ。23歳の貞享元年(1684)4月25日、京都の医者として有名であった山脇玄脩に入塾しました。当時、玄安は道憶と名のり、河内から医療を学ぶため、京・大坂へ遊学した一番最初の人物だといわれています。享保2年(1717)、56歳で亡くなりますが、以後、井岡氏は医家として地域医療に貢献していきます。玄安の子に理安(公恒)がいました。理安は安永3年(1774)、63歳で没しますが、融通念仏の教えに深く帰依しました。私は、浄光寺の野田和男住職から江戸時代以後の過去帳を見せていただきました。そこには、理安時代以後の井岡家代々の忌日や戒名がこまかく記されており、今も同家当主をはじめ、妻子の位牌が何十基と本堂に祀られています。理安自身、浄光寺の本尊である阿弥陀如来像を安置する宮殿(厨子)を寄進しています。宮殿左側面に「明和元甲申十月 願主井岡理安」「河?松原新堂浄光寺 霊和南淳代」とあり、明和元年(1764)のことです。理安は6年後の明和6年(1769)2月にも、「明鏡山浄光寺 什物」の銘を入れた喚鐘を寄進し、今も本堂の縁の鴨居に下げられています。幕末、理安の孫である元喬(恒徳)も寺の維持に尽くしました。浄光寺は天保2年(1831)に本堂や山門が再建されますが、この時、銀一貫目を寄付しています。今でいえば、300万円ほどになるでしょう。弘化4年(1847)には、現在、本尊両脇に祀られている融通念仏宗開祖の良忍像や中興の法明像を納める厨子を同じ檀家の村田八郎兵衛と共に寄進しています。さらに、嘉永2年(1849)、前年に13歳で夭折した子の径之助の供養のため、本堂外陣の天井に架かる銅板の釣り灯籠も「施主松原村井岡元喬」の銘を入れて奉納しました。元喬は安政5年(1858)、71歳で生涯を閉じますが、井岡家は世襲医家の傍ら、浄光寺の檀越として信仰にも厚かったといえるでしょう。


◆良念寺/580-0015松原市新堂3-7-13

中高野街道の旧道が走る新堂3丁目に浄土真宗大谷派の高鷲山良念寺があります。室町時代の永正12年(1515)11月28日、良念寺の上寺であった慈 願寺(八尾市)の蓮西の願いによって、本願寺九世の実如より「木佛尊像」、つまり本尊の阿弥陀如来像が良念寺に下されました。この頃、良念寺が創建された のでしょう。江戸時代に入って、本願寺は東西に分かれますが、東本願寺を本山とする良念寺にも、寺観を整えるため、寛文年間に慈願寺の住職法円を通じて本山から申物が下付されました。その「申物帳」には、寛文3年(1663)3月27日に宗祖の親鸞上人絵像である「御開山様」が下付されたとあります。ちなみに、翌28日には近くの願正寺(上田7丁目)にも「御開山様」が下されています。寛文7年(1667)3月10日には、「太子七高祖」が下されました。浄土真宗のお寺にお参りすると、聖徳太子や浄土教の七祖であるインドの龍樹・世親、中国の曇鸞・道綽・善導、わが国の源信・法然の七僧の画像が掛かっているのをみられたことがあるでしょう。申物帳に記された各地寺院の下付年月をみても、江戸時代前半の寛永年間から寛文年間、つまり1620~60年代頃が活発であることがわかります。この時期以降、市域の真宗寺院も現在と同じように、人々に信仰されていったのでしょう。良念寺には、のち宝暦3年(1753)4月5日にも、延享元年(1744)に亡くなった東本願寺17世真如の真影が下付されています。宝永2年(1705)6月に書かれた「松原村明細帳」によると、今の上田・新堂・岡からなる松原村には11カ寺がありました。このうち、東本願寺(大谷派)の真宗寺院が6カ寺を占めており、良念寺境内は東西13間、南北16間半を測りました。新堂では、良念寺に東接して真言宗の東之坊(廃寺)があり、中高野街道(旧道)沿いには融通念仏宗の浄光寺がみられます。ところで、良念寺の山号はなぜ「高鷲山」なのでしょうか。山号は、地名の場合、その所在地を示す意味でつけられます。例えば、古代から丹比柴籬とよばれていた上田の柴籬神社の近くに建つ願正寺の山号は「柴籬山」です。現在、高鷲の地名は羽曳野市西部の町名や近鉄電車の駅名が残るように、新堂から東へ数キロも離れています。しかし、良念寺は創建以来、寺地を動いた記録 がありませんので、中世末から近世前半には、古代、丹比郡であった松原地域も高鷲とよばれていた可能性があります。古代の史料に「丹比高鷲原」とも記されていますので、その範囲は今以上に広かったのかもしれません。



みち3


十二社権現社/松原市新堂3丁目3-6

室町後期の永禄年間(1558~1569)、僧秀盛によって創建されたいう。もとは新堂3丁目の良念寺(真宗大谷派)前の東之坊(真言宗・廃寺)の境内にあり、のち中高野街道と住吉道の交差する地に移り、今は栄町公民館前広場に移っている。熊野信仰のイザナギ・イザナミなどを祀り、熊野詣や高野詣の旅人の安全を祈った。

空海は平安初期の弘仁2年(811)、紀州の高野山に金剛峰寺を建て、同地で入定しました。のち11から12世紀ごろから、空海を尊崇する人々は、高野詣をするようになりました。京都の貴族たちが高野山に詣でるルートは何本かありました。ふつう、淀川を下って天王山麓の大山崎や大阪の天満橋、あるいは堺まで来て、陸路、霊山をめざしました。大山崎からの道は東高野街道とよばれ、生駒山地西麓を経て河内長野方面に向かいます。旧国道170号線がそれにあたります。一方、堺方面には三国丘の方違神社の南を通る西高野街道が走っていました。国道310号線はそれが発達したものです。この東・西高野街道にはさまれるかのように、市域にも中高野街道と下高野街道とよばれる古道が通っています。中高野街道は、北から南へ大和川に架かる高野大橋を渡って、三宅の屯倉神社前を過ぎ、阿保・上田・新堂・岡・丹南を結んでいます。近鉄河内松原駅前を南下するバス道は新道で、旧道は曲がりくねって、その西の松原幼稚園や松原小学校前を通っていました。下高野街道は、大和川の下高野橋から阿麻美許曽神社前を過ぎ、天美小学校を左に見て、西除川に沿って布忍神社前を通り、河合の古池に至るルートです。やはり曲がっています。府道大阪狭山線がそれにあたります。もともと、中・下高野街道は地形の影響をうけて、中位段丘上にできた集落と集落を結ぶ自然発生的な道としてスタートしたと思われます。これに対し、市域を東西に一直線に走る長尾街道や竹内街道は国家計画によって作られたと考えられます。近世以降、高野詣が盛んになるにつれて、同道は主要な道路となり、中・下高野街道とよばれるようになったのでしょう。高見の里方面から、長尾街道と中高野街道をつなぐバイパスとなる住吉道が中高野街道と交差する新堂2丁目で6世紀後半ごろの橋が検出されました。橋梁部材は、川底に幅40センチ、厚さ10センチの板材を二重に敷き、その上に直径40センチ、長さ5mの丸太を横に並べて橋脚替わりにしたものです。橋梁の幅は10mほどになり、歩行部分は厚さ15センチの板材を2枚重ねて強度を保っています。こうした堅固な橋が川に架けられていたことから、同地には古道が古墳時代後半から存在していた可能性があります。

橋梁検出地の東、新堂3丁目の良念寺門前には、新堂の鎮守ですが高野詣や熊野詣の遥拝所もかねた十二社権現宮が祀られていました。戦国時代の永禄年間(1558~69)の創建と伝えています。今は廃寺ですが、真言宗の東之坊境内に本殿・門・木鳥居が作られ、同寺住持が管理していました。また、街道沿いには天保5年(1834)造立の「かうや」道を示す道標も現存しており、歴史街道のなごりを今にとどめています。

松原市柴垣1丁目、岡25丁目所在遺跡

市域南方に広がる遺跡で、遺跡の中央部を中高野街道が縦断し、南方部分では竹内街道が横断しています。遺跡内での大規模な発掘調査は、府営住宅の建替に伴って、平成4年1992に大阪府教育委員会によって行われました。調査では、大型の掘立柱建物跡とともにこしき炉の跡やふいご跡などの鋳造遺構が発見され、鋳型片や銅滓、鉄滓などが多数出土しました。中世において丹比地域に根付いていた河内鋳物師の工房跡と考えられます。その他本市教育委員会の調査では、小字名で薬仙寺というところから中世の瓦が多数出土することを確認しています。広隆寺文書に見られる中世寺院薬泉寺の跡ではないかと推測しています。


みち4


松原南小学校の西側には、平成13年にポケットパークがつくられ、「中高野街道」の石碑が設置されています。

◆正井殿/松原市岡4丁目4-28

連理の松 丹北郡松原の庄 間西天の神木也

狂歌 利光 しなたれるひよく連理の松か枝に 人目も恥もしら藤の花

同  松緑 葉をしきてふたりねせしハこれそ この連理の松のあれはなりけり

巣やかけん比翼連理の松の枝 意朔

契り来なけ連理のまつそ郭公 如貞

心かハりするな連理の松の色 器水


みち5


先の狂歌や俳諧は、延享7年(1679)に出版された『河内鑑名所記』に収められたものです。同書は河内柏原の三田浄久が河内国で見聞した名所・旧跡に関する伝承や由来を地誌の形にしたもので、同地を訪れた人々の狂歌や俳諧を紹介しています。そのうちの1つに、丹北郡松原庄にある間西天の神木「連理の松」がとりあげられているのです。松原庄は、現在の上田・新堂・岡の地域にあたり、間西天はいまの岡3丁目の松原南小学校前に鎮座する正井殿をいいます。素戔鳴命を祭神とし、古くから岡と立部地区の人々に信仰されていました。この正井殿の境内に、江戸時代前半ごろ「連理の松」とよぶ河内でも評判の松がみられたのです。「連理」とは1本の木の枝が他の木の枝につき、1本の木のように木理が同じになることです。歌にある「比翼」は「連理」と結びついて「比翼連理の契り」ということばになって、男女・夫婦の仲がきわめて親密なことのたとえに使われています。そこから、縁結びや安産の神木として崇拝されるようになりました。正井殿の連理の松を詠んだ利光は大和宇陀郡の久野氏、松緑は大阪の小野氏、意朔は大阪の伊勢村氏、如貞は大阪の井口氏、器水は河内石川郡の人であり、各地から文人が神木を愛でに訪れています。松原市緑化協会は市内社寺林の調査を行っていますが、その中で正井殿は松を主体とする単木型景観林で、直径40センチ前後のクロマツも4本生育していることが報告されています(「緑と花」昭和55年13号、平成4年37号)。江戸時代の神木「連理の松」は、すでに枯れて現存しませんが、当時の松林の景観が今日まで受け継がれているといえるでしょう。本市は、松が長寿や節操を象徴する木であることや松原庄の地名から、松を市木に選定しているほどです。平成14年、歴史学者の上田正昭さんを理事長として、鎮守の森などを関連する諸学の垣根を取り払って調査研究を進め、地域に密着した新しい学問の創造と社叢の保存・開発をめざして社叢学会が発足しました。私も会員になっていますが、山地のない本市にあって、社寺林は貴重な緑です。2代目連理の松を復活させたり、文化財条例で保存木を選定するなど、将来にわたって緑の遺産を守っていかなければなりません。