ぶらり中高野街道(松原版)3 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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中高野街道と6商店会

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中高野街道は、大阪方面から霊場高野山(和歌山県)へ向かう古道の一つです。江戸時代以後、頻繁に利用されました。大阪市平野を起点として、大和川にかかる高野大橋の東から松原市域に入り、三宅・阿保・上田・新堂・岡・丹南を南北に貫きます。長尾街道と交差する阿保茶屋から、河内松原駅を経て、竹内街道に至る現在のバス道は、大正10年代につくられた新道です。もともとの古道は、河内松原駅の西から、松原幼稚園や松原小学校前を経て、新堂に入り、岡町交番の前を通って岡の松原南図書館の前で竹内街道と交差し丹南へ向かっています。6つの商店会(松原阿保商店会、松原駅前商店会、松原中央商店会、上田元町商店会、新堂・栄町商店会、松原岡商店会)は、中高野街道と共に歩んできました。


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海泉池満水石

大阪は年平均雨量が全国平均に比べて少なく、また河川が短小なうえ流域が狭いため、古くから農業用水を貯めるため池が数多くつくられていました。現在、府内にはため池が約1万ほどあり、全国で5番目の多さです。このうち、水面積が最大の池は岸和田の久米田池で45haにも及びます。それでは、本市最大の水面積をもつ池はどこでしょうか。戦前まで、松原には100前後の池がありました。今では半数近くに減りましたが、三宅東2丁目の大海池が最も広大です。中堤で東大海池と西大海池に分けられ、一部、工場用地に埋められましたが、14.5haを測ります。ちょうど甲子園球場が3個分入 る計算になります。府内でもベスト15に入る大池です。大海池は、江戸時代末期の村方文書に「拾四町六反壱畝拾歩慶長五子年より池ニ成」とあります。関ヶ原合戦が起こった慶長5年(1600)につくられた池であることがわかります。このとき、三宅西1丁目の深淵池も築造されました。広い田畑をつぶして、大池をつくったということは、よほど水に困っていたからでしょう。大きな海という壮大な名をつけた農民たちの心意気が伝わってきま す。平地に新しく掘ったことから、深さは85cmと浅いことが特徴です。その際、掘った土を集めて西大海池の真ん中に円山とよぶ波よけと思われる島もつくられました。享保20年(1735)に発刊された地誌の『河内志』は、河内平野の中に波うつ大海池を「大海池 在 三宅村 広一千一百余畝」と紹介しています。大海池は、狭山池用水に繋がる上田1丁目の中門の堰樋を経て、海泉池(阿保4丁目)から水を受け、三宅や瓜破(大阪市平野区)の田畑を灌漑しました。しかし、江戸時代を通じて阿保村と三宅村との間にしばしば水論が起こっています。それに関して、長尾街道沿いの中門の堰樋跡には享和元年(1801)7 月の「字中門三宅村大海池 分量石 上田三宅立会」と刻んだ分量石が建っています。また、海泉池北堤、阿保公民館東側にも文化5年(1808)閏6月の 「海泉池満水石西阿保三宅立会」と記した満水石が見られます。両石は、各村への配水の分量を決める物差しともいえるものでしょう。現在、大海池は縦横にめぐらされたパイプラインによって三宅の田畑に水を送り続けています。今後、大海池をはじめとして各地のため池は農業用だけでなく、環境美化がはかられて都市生活に「やすらぎ」と「うるおい」を与える水辺の空間としての役割も担っていかなければなりません。


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松原市民道夢館

580-0043松原市阿保4丁目210番地の7072-338-0500

地元の子供で賑わう 松原市民の為の施設です。サークル活動や講座で使われています。残念ながら、「チャレンジドームは市民以外の方の利用はできません。


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地蔵堂前道標/松原市阿保4-11-1

角柱型の道標は明治15年(1882)9月に建立された。「右 八尾 信貴山」「左 平野 大阪」とある。中高野街道から別所方面に分かれる地蔵堂前に建つ。地蔵は戦後、大阪から移されたもの

阿保茶屋跡/松原市上田1-11-6

中高野街道と長尾街道の交差する所は、江戸時代以降、旅人めあての多くの茶屋があったといわれている。江戸時代の史料に阿保茶屋村とよばれていたこともあった。明治39年(1906)5月建立の松原村出兵軍人の「日露戦役記念碑」や昭和3年(1928)10月の「御大典記念」「松原村分会」記念碑も建てられている。


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長尾街道

市域の中央を東西に走る街道です。堺市北三国ヶ丘町の方違神社付近からまっすぐ東進して、大和川沿いに奈良県に入り、その後南下して、葛城市の長尾神社に至る街道とされていますが、現在では藤井寺市付近でそのルートがよくわからなくなっています。長尾街道は、中世から近世において、商業都市堺や浪速を中心とした産業の流通や人々の伊勢詣や熊野詣、高野詣などによって発展した街道と考えれます。市域でも中高野街道と交わるところなどは、明治時代まで御茶屋などがあって、”阿保茶屋”と呼ばれて、にぎわったそうです。しかしながらその起源は意外に古く、飛鳥時代には、側溝を備えた立派な道路がすでに同一ルート上に存在していたことが発掘調査で判明しています。記紀にも飛鳥時代に難波宮(現在の大阪市中央区法円坂)と大和の飛鳥宮(奈良県高市郡明日香村)を結ぶ”大津道”、”丹比道”などと呼ばれた官道が存在していたことが記載されています。長尾街道の起源となった古道はこういった古代の国家級官道であったと思われます。

中門の分量石/松原市上田1-8-1

享和元年(1801)7月、上田と三宅村の立会いで決められた。堰高は上端まで5尺とある。長尾街道の小字中門に、南から流れてきた今井戸川がぶつかり、東の阿保村の海泉池や三宅村の大海池に分かれる流路と、西の松原村上田へ向かう本流の所に堰高を定める分量石がある。


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ちちかみ橋跡と「長尾街道」道標/松原市上田1-4-1

正面には「ちちかみはし」、両側面に「長尾街道」、裏面に「明治四十三年二月修繕、大阪府」と彫られた道標があります。堺と大和を結ぶ長尾街道に建てられたモニュメントですが、「ちちかみはし」の名に興味をそそられる人も多いのではないでしょうか。「ちちかみはし」には、次のような悲しい伝説が残されています。「遠い昔、京から来た高貴な身分の母親が愛児に乳房を含ませていました。子どもは母親の乳に満足してスヤスヤと眠っていましたが、急にむずかり、口に含んでいた乳房を歯でかみきってしまいました。このため、母親は愛児を抱いたまま亡くなったのです」新堂1丁目の松原中学校方面から北流してきた今井戸川は、近鉄河内松原駅の西側線路をくぐります。やがて、上田1丁目の長尾街道にぶつかる字「中門」で西流する本流と東流する支流に分かれていきます。江戸時代、「中門」には堰樋が設けられていました。そこは、阿保村の海泉池から三宅村の大海池に至る用水の取水掛口でした。東と西に分岐する水流の堰高を定める享和元年(1801)7月の分量石がいまも残されています。灌漑領域の上田村や三宅村の人々が立ち会って決めた碑文も見られます。「中門」から西へ200メートル進むと先の道標があり、ここに「ちちかみはし」が架けられていたのです。愛児が母親の乳房を歯でかみきった所でしたので、橋の名となりました。川は街道に平行する南側では暗渠となっていますが、松原警察署の東側からは北へ向きを変えます。「ちちかみはし」の悲しい伝承は、のち人々の哀れをさそいました。「ちちかみはし」と「中門」の真ん中、街道の南側に住吉神社が祀られていました。同社は、上田村反正山地区の氏神ですが、村人は祭神の住吉大神と共に、亡くなった母親や乳をかみきった愛児を歯神として同社に合祀したのです。このため、住吉神社は歯神社ともよばれるようになりました。住吉神社は、室町時代の永禄年間(1558~69)の創建と伝えています。柴籬神社(上田7丁目)の神宮寺であった観念寺の法印秀盛が勧請しました。境内は東西22メートル、南北6メートル。本殿は一間社流造りでした。明治初年に柴籬神社に合祀され、現在は社務所の真向いに祀られています。なお、「中門」の名は五世紀前半、反正天皇が都とした丹比柴籬宮(「歴史ウォーク」7)の中門があったという伝承からつけられました。柴籬宮の推定地である柴籬神社に合祀された歯神社では、歯(は)にちなみ、毎年八月八日八時八分から祭礼が行われています。