ぶらり中高野街道(松原版)2 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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屯倉神社本殿には神像として菅原道真像が安置されています。総高99.7cm、総幅128.3cm、膝張78cmの等身大です。体部は近世の作ですが、挿首形式の頭部は南北朝時代の古様を示しています。天神信仰の広がりにつれ、屯倉神社には道真に関わる伝承品が多く残されています。近世の近衛信尋自画賛の渡唐天神像、後陽成天皇の手になるという菅原道真画像、近衛基煕筆の「南無天満大自在天神」名号などは代表的なものです。


くら1


社務所のあたりは、神宮寺の梅松院があったところで、僧侶が神官を兼ねていました(明治初期に廃寺)。このため、神仏習合が見られ、たとえば神像の道真像の体内に元和8年(1622)に書かれた丹生講式や柿経の法華経八巻、および舎利二粒が納められていました。これらは道真への供養品だったのでしょう。ところで、道明寺天満宮(藤井寺市)蔵の『道明尼律寺記』(享保11年)によると、道真が右大臣にのぼりつめたころ、叔母の覚寿尼が土師氏(菅原氏)の氏寺である道明寺の住持になっていました。延喜元年(901)、道真は左大臣の藤原時平の中傷によって大宰権帥に左遷されました。道真は京都から九州におもむく途中、道明寺に立ち寄り、覚寿尼に別れを告げたと伝えています。同じく享保11年の屯倉神社蔵の『三宅天満宮梅松院縁起』にも、史実はさておき、道真は道明寺で叔母と別れたあと、三宅の穂日の社へ立ち寄り、石に座して祖神の天穂日命に無実の罪をはらすことを祈ったと記されています。道真が座したと伝える石は「神形石」とよばれ、いまも拝殿前に石垣で囲まれて祀られています。長さ180cm、幅110cm、高さ35cmほどの扁平な石です。石造品に詳しい奥田尚さんに石材鑑定をお願いし、同石が鉢伏山(羽曳野市飛鳥・駒ヶ谷)で採れる石英安山岩であることを教えていただきました。鉢伏山には7世紀代の古墳が多く築かれていますが、鉢伏山南峰古墳や西峰古墳の横口式石槨のように、その墓室に当地の石英安山岩を利用しています。三宅には全壊しましたが、土師ケ塚古墳や権現山古墳が築造されていましたので、古墳の石室の1部が神社に移された可能性も捨てきれません。「神形石」が土師ケ塚のものだという伝承も古くからあるほどです。社務所の庭園には「土師墳」と刻んだ自然石も移されています。道真が学問や文芸の神様とあがめられるとともに、土師氏の遺跡も道真と結びついて尊崇されていったのです。


くら2


◆阿保5丁目

阿保5丁目の阿保神社や西徳寺あたりは、今も古い町並みが残っており、入り組んだ路地が曲がりくねっています。その社寺の西側に、保田敬三さん宅があります。阿保は、江戸時代には東阿保村と西阿保村に分かれていましたが、保田家は西阿保村の庄屋層の家柄でした。東西阿保村は、明治8年(1875)に合併して阿保村になりました。現在の保田家は、土間から居室に入る踏み台として使われていた板裏に「文化元年二月、大工□、六十二歳」と書かれた墨書が残っていることや、古材の建築手法から18世紀中期を降らない築造とみられます。文化元年(1804)に増改築されたのでしょう。現状は桁行十四間、梁行五間半という平入瓦葺(元は茅葺)の大きな構えです。市域では、現存するものとして、17世紀前半の天美我堂7丁目の西川宏家住宅に次ぐ古さです。保田家には、江戸時代中頃に書かれた家伝の掛軸が残っています。これは、享保20年(1735)に『河内志』を著した儒学者の並河誠所の門人である竜泉斎仙鳳が書いたものです。阿保の地名は、平安時代初期に平城天皇の皇子である阿保親王が丹比郡の当地に住んでおこったことから書き始めています。つづいて、長和3年(1014)、阿保親王の子孫という在原信之の子である幸松磨は阿保の稚児ヶ池に入水して、母の眼病平癒を祈りましたが、この幸松磨は保田氏の先祖であると伝えています。六歌仙で有名な在原業平は親王の五男ですが、保田氏は業平の兄の仲平を初祖としています。最後に、保田氏は阿保親王の保の字をいただき、在原氏から改名して代々、阿保村に住んだとしめくくっています。一方、同家の過去帳では戦国時代の永禄4年(1561)に保田家を興こし、天正17年(1589)に亡くなった保田惣左衛門を初代としています。のち、江戸時代の元和5年(1619)に没した二代の仁兵衛より幕末に至るまで、保田家当主の多くは代々、仁兵衛を名のりました。保田氏が村で重きをなしたことは、海泉池の東に広がる阿保墓地の入口左側にある同家の墓所からもうかがえます。18世紀前半の享保や寛延年間の墓に混って、ひときわ大きい天保10年(1839)11月の保田市右衛門墓や嘉永5年(1852)2月の保田仁兵衛墓の台石に「百姓中」の文字が彫られています。西阿保村の農民たちが保田氏の功績をたたえて建立したのでしょう。ちなみに、最後の松原町長で、昭和30年の市制発足とともに初代松原市長となった保田俊一郎は、保田家二十一代の当主でした。


くら3


◆西徳寺/580-0043松原市阿保5-4-15

2010年4月18日、真宗大谷派の西徳寺(阿保5丁目)の本堂と山門が再建され、盛大な落慶法要が営まれました。また、来年は宗祖親鸞聖人の750回御遠忌にあたりますので、あわせて御遠忌法要も厳修されたのでした。お寺では、これを記念して住職の千賀正榮さんが編者となって、『本堂山門再建のあゆみ』と題する立派な御本も発行されました。西徳寺は、寛政10年(1798)正月に記された「道場目録帳」や江戸期以降の覚書である「西徳寺常住物之覚」などによると、室町時代の永正3年(1506)4月の創立と伝えています。道入が、本願寺8世の蓮如に帰依して法名を与えられ、道場を建立したことが始まりです。江戸時代に入って、4代住職浄了の寛永9年(1632)4月に本尊の木仏尊像(阿弥陀如来像)が、本山・東本願寺13世の宣如から下されました。寛文6年(1666)には、東本願寺十五世常如より、2月に聖徳太子真影、11月に七高僧真影や宣如上人真影・親鸞聖人真影を下されています。この頃には、「河内国丹北郡阿保村惣道場西徳寺」の寺号も見られ、現藤井寺市沢田の極楽寺が上寺となっていましたが、本山との仲介をとったのは八尾御坊でした。ところで、新本堂の前に建っていた旧本堂は、10代了教が48歳の安政3年(1856)4月に上棟されたものです。その時の棟札「奉納棟札記」によると、阿保村庄屋の保田仁兵衛らから前年の安政2年11月に大坂西町奉行所に「再建願御免」が出され、新堂村(松原市新堂)の利助が大工棟梁となりました。利助の姓は、伊藤氏。融通念仏宗 の浄光寺(新堂三丁目)を檀那寺としており、先代利助と共に幕末に浄光寺本堂を再建したり、雄略天皇陵(羽曳野市島泉)の修復に際し、木製鳥居を造ったりしました。棟札には、釈迦如来の金言とともに、天照大神の託宣も受けていると記し、本堂が神仏に守られていると考えられていたのです。同寺には、安政3年時の「本堂再建附込帳」も残されていました。そこには、御遷仏法要に参勤した岡の円正寺、河合の称念寺、田井城の陽雲寺、上田の願正寺・福應寺、新堂の良念寺、立部の栄久寺、西野々の西法寺、三宅の玉應寺や現堺市金岡、大阪市田辺、八尾市沼、大阪狭山市半田の寺々の名前が見られます。同じ阿保村の安養寺(阿保6丁目)や、明治時代に廃寺となった西照寺(阿保6丁目の阿保東部第一公園の東側)も法要のお世話を担っています。明治5年(1872)、小学校が誕生する前に郷学校と称する初等教育機関ができ、市域にも9か所の郷学校が設置されました。西徳寺も、そのうちの一つとなって生徒45名(男30、女15名)が学び、11代住職の千賀了雄が習字教師として教えています。明治7年(1874)、松原小学校が上田に設置されますが、同校初代校長は了雄の三男であった了彦が就任し、次男の了隆も第3代校長を勤めました。西徳寺の歴史の中で、千賀氏が地域の学校教育にも関わったことが知られるのです。



くら4


◆阿保神社/580-0043松原市阿保5-4-19

市役所の所在する阿保の読み方は珍しいでしょう。「あお」と読みます。地名の由来は、平城天皇の第2皇子である阿保(あぼ)親王の別荘地からきたと言われています。親王は、平安時代初頭の弘仁元年(810)に起こった薬子の変(嵯峨天皇の時代、藤原薬子・仲成が平城上皇の復位をもくろんだ事件)に関連して、大宰権帥として九州へ左遷されましたが、のち許され、承和元年(834)に河内国丹比郡田坐に別荘を造営したと伝えられています。田坐の地は、現在の阿保から田井城のあたりに当たると考えられます。『続日本後紀』によれば、親王は性格は謙退で、文武の才能を兼ね、絃歌に秀でていたといいます。しかし、承和9年(842)に51歳で亡くなりました。六歌仙の1人である在原業平は、阿保親王と桓武天皇皇女の伊都内親王との間に生まれた第5子です。海泉池の一部を埋め立てて、今年7月に「道夢館」がオープンしました。その北側に阿保神社が鎮座しています。本殿の北に並んで阿保親王を祀る親王社が合祀されています。また、本殿の南側には、直径143.5センチ、高さ16メートル、根株張5~6メートルにもおよぶ「くす」の巨木が天をおおっています。市内でも最古・最大級でしょう。阿保のほぼ全域(1丁目~7丁目)は阿保遺跡と呼ばれ、弥生時代から近世に継続する集落遺構が見つかっています。このうち、阿保5丁目の阿保浄水場周辺や、長尾街道北側の阿保4丁目では、平安時代の掘立柱建物跡が確認されました。また、海泉池に接する阿保5丁目からは、平安時代から鎌倉時代にかけての海泉池を利用した灌漑用の溝や井戸が検出されています。親王の別荘を想定させる遺構は見つかっていませんが、平安時代の開発の様子がうかがえます。阿保親王が河内国丹比郡に別荘を造営したと伝える背景には、平城天皇の更衣(後宮の宮女)であった母の葛井宿禰藤子との関わりが考えられます。葛井氏は百済系渡来氏族で、飛鳥時代から奈良・平安時代にわたって、河内国志紀郡長野郷(藤井寺市)を本居としていました。7世紀半ばに建立された葛井寺は、葛井氏の氏寺でした。永正7年(1510)、三条西実隆が記した寺記『西国三十三所名所図会』には、阿保親王が同寺を再興したと伝えています。親王の母が葛井氏の出身であったことから、親王が当地に住み、伽藍の修復をしたと伝えられたのでしょう。ただ、阿保の地名については親王とは別だという考え方もあります。奈良時代の『続日本紀』天平19年(747)9月2日条に、東大寺大仏造営のために銭千貫文を寄進した河内国人初位下阿保連人麻呂が見られるからです。この阿保連を当地の人物とみなせば、阿保の地名伝承は再考しなければならないでしょう。


くら5


・・・「くすの巨木(神木)」はスゴイ迫力ですよ。