・・・「科学館」で調べてたどりついた「ビー玉」の会社が「平野(瓜破)」にあり、その前の道は「中高野街道」なのです。そして先日、友人からプレゼントされた地図が、なんと「ぶらり中高野街道」という松原市バージョンです。いただいた情報(=情けに報いる)、そしてこの偶然(つながり)を無駄にするわけにはいきません。ということで、
◆高野大橋/大阪市平野区瓜破6~7丁目(右岸)、瓜破南1~2丁目(左岸)
江戸時代には河内国と摂津国内の大和川に架かる橋は紀州街道が通る位置に架けられた大和橋しかなく、中高野街道が通る部分も1704年(宝永元年)に行われた大和川の川違えで分断されていた。当初の橋は中高野街道が大和川を越える地点に架けられた。明治時代となって架橋の機運が高まって比較的初期に架けられた橋のひとつで、地元住民の出資および広範囲で行われた寄付によって建設費が賄われた。当初はこの橋には定まった名前がなく、高野大橋と呼ばれるようになったのは大正時代以降とされる。現在の橋は1954年(昭和29年)に架け替えられた。守口平野線の整備伴い、旧街道筋から約200mほど下流側に移設された。当初は大阪府の管理でその後大阪市に移管されている。途中、国道309号の一部に指定されていたが、約200mほど下流に瓜破大橋が架設されたことにより現在は国道指定から外れ、府道住吉八尾線の一部となっている。1968年(昭和43年)に拡幅されている。南岸西側の欄干に、橋の歴史に関する説明文と現在の橋が架設されたばかり(旧橋は上路が撤去されて橋脚が残っている状態)のときの航空写真が掲げられている。
◆願久寺/580-0046松原市三宅中5-15-16
古い町並みが残る三宅中5丁目の一角に、浄土真宗大谷派の願久寺があります。近接して同派の善長寺・玉応寺も甍を競うように建っています。願久寺の山号は慈光山。寺伝によると、もともとは天台宗でしたが、戦国時代の永正11年(1514)、浄琢を中興の祖として浄土真宗に改宗したといわれています。本堂内陣に祀られている本尊の阿弥陀如来立像は、平安時代後期の藤原様式をもつ古仏です。寄木造で、滝のように流れ落ちるY字形に似た衣文をまとった豊満な体躯が見る人の心に訴えます。村々の真宗寺院の本尊に、平安時代の阿弥陀如来像が祀られることは多くありません。それほど古い像といえるでしょう。本尊の背面に「寛文八歳 鳥大仏師七十九代運阿弥極之□ 慈覚大師御作 戌申 当寺本尊也願久寺釋浄賢」とあります。このことから、江戸時代の寛文8年(1668)、5代住職浄賢の時に本像を願久寺の本尊として迎えたと思われます。当寺は天美我堂の善正寺と並んで、本願寺歴代にゆかりのある品々が所蔵されていることでも知られています。まず、裏書に記された花押などから本願寺8世蓮如が文明5年(1473)6月18日に下付したと考えられる阿弥陀如来画像があります。いわゆる「方便法身尊像」とよばれるものです。やや大ぶりの像に48条の光明のうち、1条が真上に突き抜ける形式になっています。寺では、本願寺12世教如より賜ったと伝えています。3代住職の浄弘は、のち東本願寺初代となる教如と親密な関係を持ち、教如が河内一円を布教して、慶長12年(1607)に八尾別院(現八尾市の大信寺)を建立するとき、土地や門徒を提供して協力したほどです。また、本願寺9世実如の直筆とされる「南無阿弥陀仏」の六字名号も貴重でしょう。実如の父蓮如は、宗祖親鸞の遺訓を守って名号を本尊として、これを書写して多くの門徒に与えましたが、実如も父の書風を守って名号を残しました。その書風は、蓮如と比べて丸みが強いといわれています。ほかにも、先の浄賢は寛文元年(1661)に親鸞上人画像、寛文3年に聖徳太子画像、七高祖画像を東本願寺3世琢如より下付され、いまも本堂に祀られています。なお、願久寺は南隣する善長寺とともに 、明治7年(1874)にはじめて三宅小学校が設けられた場所でもあります。
◆善長寺/580-0046松原市三宅中5-15-20
古い家々が残る三宅中5丁目に、仏光山善長寺が建っています。真宗大谷派で、京都の東本願寺を本山とします。戦国時代の文明元年(1469)、成教が三宅村の道場として、開いたと寺伝にあります。善長寺の名は、江戸時代前期に近くの樋口壽一さんの先祖である樋口善左衛門の善と、大橋弘太郎さんの先祖にあたる大橋長右衛門の長をとって付けられたと伝えています。代々、樋口氏当主は善左衛門を、大橋氏当主は長右衛門を名のり、両家は中高野街道の西側に面していました。現在、樋口さん宅に4種類の同家系図が保存されています。それらによると、樋口氏は古墳時代、中河内や南河内地方に勢力を持っていた豪族の丹比氏の子孫とします。のち、平安末期の源平合戦で、源(木曽)義仲の武将として活躍した樋口次郎兼光を中興の祖とし、樋口氏を名のったとあります。とくに、、幕末の弘化2年(1845)に亡くなった、丹比氏から55代、兼光から28代の樋口善左衛門好昌がまとめた系図は注目されます。この中で、明暦3年(1657)に丹比氏50代、兼光23代の善左衛門兼廣の時、「宿坊、兄弟違乱の事有り。仍りて別に道場を建立す。善左衛門、長右衛門両人の頭を取り、善長寺と号す」と記しているのです。善長寺の上寺であった八尾の大信寺(八尾別院)の史料に、明暦3年7月、東本願寺から宗祖親鸞絵像を、同12月に東本願寺14代門首の宣如絵像を善長寺の浄了に下したとあります。寺号と共に絵像が与えられていますので、江戸時代前半に道場から今のように寺院化したのでしょう。浄了は6代住職で、寛文元年(1661)に亡くなり、寺の中祖とされました。同寺の北に接する同じ真宗の願久寺(「歴史ウォーク」49)の浄賢にも、明暦3年10月に親鸞絵像が大信寺を通じて東本願寺から下されています。善長寺では、現住職の秦氏が一貫して寺を守ってきたことから、寛文11年(1671)以降の檀家の過去帳が多く残っており、三宅村の門徒の様子を知るうえで非常に貴重です。なお、三宅別所霊園(三宅東3丁目)の正面、迎地蔵すぐ西側には、樋口善左衛門の名を刻む江戸時代後半の享保や寛保などの墓石が祀られています。また、大橋長右衛門の名を記す幕末の文政や嘉永年間の墓石も無縁塔西側にみられます。大橋氏は、徳川2代将軍秀忠、3代家光に仕えた書家の大橋龍慶を出した家としても有名です。明治7年(1874)、善長寺には願久寺と共に現在の三宅小学校が設けられました。また、明治初期から昭和初期にかけて三宅で盛んであった冠句(雑俳の一種)の結社、好楽社の句会の場のひとつともなりました。善長寺は三宅村の子どもたちの学びの舎となると共に、地域文化にも貢献していったのでした。
◆屯倉神社/580-0046松原市三宅中4丁目1-8
三宅中4丁目に鎮座する屯倉神社は、天慶5年(942)に菅原道真を祭神として創祀されたと伝えています。当地にはもともと、土師氏(のち菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があり、同社は、のち依羅三宅天満宮ともよばれるようになりました。
・・・「屯倉」を「みやけ」とは読めませんね。