・・・伊勢神宮にも行きましたし、東高野街道のスタート地点でもある京都府八幡市にも行くことができました。だからこそ、どうしても確認しておきたいことがあります。まずは「おかげ灯籠」についてです。
●大阪狭山市「おわり坂」を登って西高野街道と天野街道の分岐点に至る手前の今熊7丁目の民家の前に、「おかげ灯籠」が立っています。高さは160cmほどで、中台に「おかげ」竿に「太神宮、今熊村、天保元年(1830)庚寅九月吉日」と書かれています。「おかげ」は「御影」で、これは「おかげ年」のことを意味しているわけです。近世には何度か「おかげ年」と呼ばれる年があって、その年には非常に多くの人々が伊勢参宮を行ないました。おかげ参りは、寛永15~16年(1638~1639)、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、文政13年(1830)の5回で、明和8年(1771)には全国で270万人が伊勢に参詣したそうです。また、文政13年のときには、おかげ参りに引き続いて、人々が地元で集団的に踊り狂う「おかげ踊り」がおこっています。また、慶応3年(1867)にも、民衆による集団的な舞踏がおこり、一般に「ええじゃないか」とよばれています。大阪狭山市の壷井家の日記や中林家累代日記にも文政13年の伊勢参宮の様子や、半田で発生した「おかげ踊り」について書かれており、文政13年6月ごろから始まり、周囲の村に伝播したようです。銘々が赤白の御幣を手に持ち、30~50人のグループで踊り歩き、衣服もいろいろ仕立てたようです。女性が男性の、男性が女性の格好をして、村の庄屋・年寄などの家に出かけたことが書かれています。灯籠は「おかげ踊り」の強い影響を受けていたことの証です。
・・・この大阪狭山市今熊の「おかげ灯籠」は発見できたのに、河内長野市松ヶ丘の「おかげ灯籠」はなんども行ったり来たりしたのですが、見つけることができなかったのです。地元の人間としてはずかしいことなのです。
●西高野街道FW案内にも必ず登場します。
「滝谷」駅→知恵地蔵→十里里程標→天野橋→三叉路の辻(常夜灯・地蔵尊・宝篋印塔・道標・水路)→松林寺→松が丘・おかげ灯籠(天保2年=1831年)→「中高野街道」との合流点→盛松寺→寺ヶ池・顕彰碑→明忍寺→清明塚→原町の道標・巡礼街道との合流点→十三仏→膳所藩代官所跡→行者堂・九里里程標→「河内長野」駅前「東高野街道」との合流点
・・・上記の画像は、ブログ等に掲載されていたものです。
・・・そして、もう一度探しに出かけました。東高野街道を富田林まで走り、そこからに西高野街道へと向かいます。
◆東高野街道錦織一里塚
旧国道170号線を富田林から河内長野に向って行くと汐ノ宮駅の手前、近鉄長野線と道路が最も接するあたりの東側に、こんもりと盛り上がった築山のような場所があります。ここはかつて東高野街道の一里塚の一つで、西側にも同じような場所があり、それぞれ東塚、西塚と呼ばれていました。一里塚は中国に起源をもっています。街道に沿って一里(約4キロ)ごとに塚のような土の高まりを築いて大樹を植え、一里の目印にしたといわえています。日本では江戸時代のはじめに全国のあちこちに造られました。錦織一里塚は1辺が約9メートルの正方形で、高さは約2メートルあります。かつては、この塚上に一本松と榎(えのき)が繁り旅人に日陰を与え、旅の休憩場所として利用されていました。昔はどこにでも見られた一里塚ですが今ではほとんどが消失し、この錦織一里塚は数少ない遺構の一つとして大阪府の史跡に指定されています。東高野街道は京都から枚方の山すそを通って富田林へ入り、喜志~新堂~富田林寺内町をすぎ、錦織から河内長野を通って高野山へ通じていました。
・・・なんと、生垣に埋もれて建っていると思っていたので、眼をこらして探していたのですが、いとも簡単に見つかりました。生垣は無くなり、道も整備されていたのです。さらに、灯籠の左右には衝突防止のポールまで立っていました。発見できてスッキリしました。
・・・さて、東高野街道を羽曳野・古市までもどってきました。白鳥神社の南側を東西に走る『竹内街道』と、誉田八幡宮の前を南北に走る『東高野街道』とが交差する古市は、この交差点『蓑の辻』を中心に、北町、南町、中町、東町、西町、堂之内と、それぞれの町に分かれ、昔から交通の要所として栄えました。
1909(明治42)年頃、富田林銀行古市支店が建設され、後に羽曳野市商工会館へと転用されて旧街道沿いに豊かなアクセントを与えていましたが、商工会館が移設され、建物はしばらく残されていましたが取り壊されて、現在は「古市六町蓑の辻会館」が建てられています。
・・・さて、「竹内街道」でも気になるところがありますので、今度はそちらを探訪します。「蓑の辻」から少し古市駅の方へ行きますと、「長円寺」があります。