・・・孫と「ジオラマ」で遊んで以来、小さな建物や街の模型などにはついつい目がいってしまいます。「科学館」で見つけた建物は「舎密局」という変わった名前でした。どこかで見たような気がして、家に帰って調べました。写真と、長谷川貞信の「浪花百景」にも舎密局の外観が良くわかる錦絵を見つけました。
・・・「舎密」は、「せいみ」と読みます。オランダ語で「化学」を意味するChemieの当て字だそうです。そして、保存していた画像を見つけました。
◆舎密局(せいみきょく)跡/大阪市中央区大手前三丁目1
本町通りの道路沿いに大きな楠が残されています。クスノキの下には日本の化学の父ハラタマ博士の胸像と史跡・舎密局跡の石碑があります。幕末、江戸洋書調所を開講する予定が、維新を迎えたため大阪に移されました。大阪ではじめての公立学問所でオランダ人ハラタマを招き明治2年(1869)5月、この場所で我が国最初の理化学学校「舎密局」が政府により開設されました。名のとおり主として理化学を教えました。その後学制改革などで何度か名前を変えて、明治22年には京都へ移り、旧制第三高等学校・京都大学へとつながっていきます。このクスノキは舎密局の生徒が憩う緑陰として当時からあったといいます。クスノキの前には小さな祠と五輪塔があり、道路側には古い石垣も残り、近代的ビル群の中にここだけが明治時代のままです。
◆ハラタマ胸像
Koenraad Wolter Gratama(クーンラート ウォルテル ハラタマ)は1831年オランダ、アッセンで生まれ、慶応2年(1866)長崎に来た。翌3年江戸に移り江戸幕府開成所の充実に努め、大阪での舎密局創設に当たる。明治4年帰国。我が国理化教育の恩人。我が国化学の父を記念するため、阪大・芝教授を中心にしてオランダ修交400年に当たる2000年の秋、舎密局跡南方200メートル「舎密局址」碑の近くに、この胸像が設置された。像の管理は大阪大学内・適塾記念会が担当。
・・・京都も調べてみましょう。
◆京都「舎密局跡」/京都市中京区土手町通竹屋町下ル鉾田町542(銅駝美術工芸高等学校)
ここは、その昔は、角倉氏の邸宅があったところだそうです。京都市立銅駝美術工芸高等学校の敷地に「舎密局(せいみきょく)跡」の説明板があります。舎密局は、明治2年(1869)に大阪、翌3年(1870)に京都に設立されました。舎密局では、多くの優秀な人材を育てました。京都舎密局は、1881年に京都府知事の槇村正直さんが転任されて、その後、閉鎖されてしまったようです。1895年には、舎密局跡の建物も焼失してしまい、現在は、銅駝美術工芸高校が建っています。
【説明板】舎密局跡
「舎密」とはオランダ語シェミーの訳語で化学のこと。東京遷都により沈滞した京都の産業を振興する目的で、京都府が設立した理化学研究所である。明治3年(1870)明石博高の建議により府知事槙村正直が仮設立、同6年本建築が落成した。広く受講生を募集し、ドイツ人ワグネルら外人学者を招き、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)、ビール等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及につとめた。また、本格的な理化学の講義は島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果した。明治一四年、槙村知事の転任によって閉鎖、建物も同二八年に焼失し、その後に銅駝校が建てられた。京都市
・・・先日訪れた岡崎公園の「ワグネル顕彰碑」が、つながりました。
◆ワグネル顕彰碑/京都市左京区岡崎成勝寺町
そのワグネルを顕彰する碑が平安神宮近くの公園にあります。平安神宮の巨大な鳥居を抜けて二条通の交差点南西角の交番裏の小さな公園にそれはあります。京都市が設置した高さ4m、幅10mと云う巨大な顕彰碑です。その大きさからも、いかに京都への貢献度が大きかったかを物語っています。
※ワグネル(Gottfried Wagener、1831~92)はドイツの化学者で、明治初期のお雇い外国人。明治元年に来日し大学南校で教授し、明治11年京都府に招かれ舎密局に着任し、同局に新設された化学校で教授した。陶磁器、七宝、石鹸、ガラス等の製造を指導し、京都の産業近代化に貢献した。この碑はワグネルの業績を顕彰するもので、大正13年3月20日から同5月20日まで岡崎公園で開催された東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会に際し建立された。なおワグネルの姓はよくWagnerと記されますが、この碑の肖像下の署名ならびに、東京青山墓地の墓石によるとWagenerが正しいそうです。
【参考】島津製作所のはじまり
西洋の最新技術を導入することによって京都の復興を目指そうと、源蔵が開業した木屋町二条周辺にさまざま産業施設が設立されたのである。源蔵は、一帯に満ち溢れる西洋科学の薫りを感じながら、技術導入の拠点・舎密局(工業試験場)に足繁く通い始めた。そこでは活版印刷が行われ、ガラス、製糸、そして石鹸まで作られていた。初めて見る西洋の機械、初めて触れる西洋の科学知識に、元来新しいもの好きの源蔵は心を奪われていく。源蔵が舎密局で見たもの。それは、西洋の技術や知識だけでなく、科学で生きる日本の、京都の、そして源蔵自身の未来だったのではないだろうか。舎密局で理化学の講座を受講し、実験への参加を重ね、熱心に知識を吸収していく源蔵に外国器械の修理や整備の仕事が入り始めた。源蔵は器用な手先で修理をこなしながら、外国製品を徹底的に研究していく。おりしも時は学制実施による教育振興の時代。読み書きやそろばんが主であったそれまでの教育に自然科学の重要性が唱えられていた。とはいえ、当時の日本に理科の教育器材はほとんどない。現代のように簡単に輸入できる時代ではなく、できたとしても多大な費用がかかる。源蔵は、決意した。「自分で理化器械を作ろう。そして日本を科学の国にしよう。」これが、島津製作所のはじまりであった。
・・・なんと、以前訪問した「島津製作所」も、つながりました。舎密局では、日本で最初の「里没那垤(レモネード)」・「依剥加良私酒(ビール)」そして「公膳本酒(ラムネ)」などが作られたそうです。
★ラムネ
水に砂糖やブドウ糖果糖溶液といった糖類を加え、酸味料や香料(フレーバー)を用いてライムやレモンの香りをつけた甘い炭酸飲料で、特定メーカーのブランド商品ではなく、一般名詞的に複数のメーカーから発売されている。清涼な風味のほか、独特の形状をしたガラス瓶の清涼感もあいまって、夏の風物詩として長く親しまれてきた。大日本帝国海軍の艦艇においては、消火設備として炭酸ガス発生装置が設置されており、これを転用してラムネ製造器として乗組員の嗜好品として供給した事も相まって、戦前から広く庶民に親しまれた。ラムネという名称は、イギリスからもたらされたレモネードが転訛したもの。独特な瓶の意匠もこのとき同時に持ち込まれたもので、明治初期に神戸旧居留地のシム商会が日本で初めて製造と販売を行なった。明治5年5月4日(1872年6月9日)には日本人に初めてラムネ製造の許可が下り、のちに5月4日は「ラムネの日」となった。1995年には日本ラムネ協会が設立された。イチゴ味やメロン味といった非柑橘系フルーツ風味のラムネも存在し、これらはレモネード(レモン水)という原義に立ち返れば、明らかに語義矛盾である。しかし、これらのバリエーションラムネの存在は「ラムネとは日本で独自の発展を遂げた独特の容器に封入されたフルーツ系の風味のついた炭酸飲料」と広く認識されていることの証左と捉えれば、「ラムネはラムネ」であり、レモネードとは別種の飲料であると了解しうると指摘されている。実際に缶チューハイにおいて、「ラムネ味」と「レモネード味」が、それぞれ別個の味のバリエーションとして発売された例もある。2007年から発売したワサビ味のラムネやたこ焼き味のラムネ、カレー味のラムネといった上記の理解を超えるラムネも存在する。また、北海道白糠町には紫蘇を原料にしたラムネが存在する。2000年代は日本食ブームにより、日本国外への輸出も行われている。
●1872年にイギリスのハイラム・コッドが特許を取得した瓶が元になっており、コッドネックボトルと呼ばれる。この特有の瓶とほぼセットの形で知られている商品であり、かつては代表的な炭酸飲料として広く飲まれていたが、ガス圧に抗して瓶に王冠で栓をする技術の普及や、缶飲料の登場で、シェアは小さくなっている。それに伴い、専用瓶のメーカーも少なくなった。発祥の地であるイギリスでは、すでにこの瓶は店頭から姿を消している。瓶には、上から5分の2ほどの位置にくびれが設けられており、口とくびれの間にラムネ玉と呼ばれるガラス球が封入されている。この瓶に飲料を充填し、間髪を入れずに瓶をひっくり返すと、内部の炭酸ガスの圧力でラムネ玉が口部のゴムパッキンに押し付けられ、瓶が密閉される。すなわち、炭酸飲料の内圧だけを利用して密封する仕組みであった。金属やコルクの栓を使う普通のガラス瓶飲料と異なり、栓まで含めてリサイクルが可能なリターナブル容器ということになる。瓶は洗浄して再使用され、状態にもよるが、平均で25回使用されるといわれる。しかし実際には子供たちがラムネ玉目当てに瓶を破壊してしまうことも多かった。またラムネ玉があるために、タバコの吸殻を始めとした異物が入っている場合に、洗浄が非常に困難になるという問題もある。中身を飲む際は、瓶の口を密封しているラムネ玉を瓶内に押し込み、内圧を逃がすことで開栓する。長らく木製の押し込み用具(玉押し)が販売店頭などに置かれていたが、1980年代以降、開栓用の凸型をしたプラスチック製の器具「ラムネ開け」(玉押し)を添付して販売するのが主流となった。この「装着型のラムネ開け」(玉押し)は、販売時にはラムネ玉が押し下げられないようにリングを挟む形で容器上部に装着されており、開栓時にリングを外して再び容器の口に取り付け直接ラムネ玉を押し下げることで開栓する。開栓時には同時に容器の口を抑え込んでおかないと中身が吹き出すことがある。なお、開栓の際に瓶を斜めに傾けると、泡を出さずに開けることができる。ラッパ飲みやコップに注ぐ際に瓶を傾けると、押し込まれたラムネ玉が再び上がって口を塞いでしまうことがあるが、多くの瓶には口の手前にくぼみが付いており、そこに玉を引っ掛けるとこれを防ぐことができる。販売までの経緯において取り扱いが悪く、開栓を待たずラムネ玉が容器内に落ちてしまっていることがあるが、このような場合、中身がこぼれていたり内容物が変質していることがあるため製造元や販売元に返送するよう商品に表示されていることが多い。瓶製造は、広口に成型しておいた瓶にラムネ玉を入れてから口を熱してすぼめるという工程がとられる。2000年代では、洗浄しやすくするために瓶口がプラスチックとなり、中のラムネ玉を取るために口の部分を通常とは違う右回り(時計回り)にひねっていくと、口部キャップが外せるようになっている(スクリューキャップ)。2000年代では使い捨てのポリエチレンテレフタラート|PET]]容器のラムネも登場している。ゴミ分別のため、やはり容易に口部を外してガラス玉を取り出せる構造になっている(スクリューキャップ)。このような口部のキャップを外すことが可能な商品の場合にはラムネ玉の誤飲を防ぐため、飲み終わってから外すよう注意表示が記されていることが多い。
●ラムネはびん詰めコーヒー飲料、豆腐等と同様、中小企業の事業活動の機会の確保のための大企業者の事業活動の調整に関する法律(中小企業分野調整法)に基づき中小企業に独占的に生産されており、大企業は製造に参入できない。
●ビー玉の語源としては諸説が存在する。
・「ビードロ玉」の略という説。ビードロ[vidro]はポルトガル語でガラスを意味する。
・ラムネビンの栓として使用できる直径16.85±0.15mmのものを「A玉」、規格に合わないものを「B玉」と呼んでいる。このうち規格外の「B玉」をおもちゃとして転用したという説。ただし否定的な意見もある。
・東京多摩地区の方言から広まったという説。
・・・私は、「ビン」に入っている「玉」ということで、「ビン玉」が「ビー玉」になったと考えています。もっとも「子どもらしい説」だと思いませんか?
【参考】サイダーはリンゴ酒のシードル(Cidre)が語源と言われ、1907年に登場した、砂糖、香料を加えただけの炭酸水です。一方、ラムネは炭酸水に砂糖とレモン水を加えたレモネードが始まりで、名前もレモネード(Lemonade)がなまったものと言われており、明治時代以前に登場しました。長い年月を経るうちにシードルはサイダー、レモネードはラムネに変化をしたといわれております。また、ラムネはビー玉で内側から栓をしていて、サイダーは王冠で外側から栓をしています。
※ビー玉の作り方/松野工業株式会社
547-0023大阪市平野区瓜破南2丁目3番67号/06-6708-2828
http://www.matsuno-b.com/index.html
・・・「科学館」にあった「クレパス・ラムネ」、私の好きな物同士のコラボ、さらに「ビー玉」では「平野」までが、つながったのですから不思議を通り越して、感動です。