・・・まだまだ文献を読み込んでいかなければならない、と思うわけですが、あまり深みにはまると「FW」の紹介がおろそかになりますので、ほどほどにして「書を捨てよ町へ出よう」です。
◆末吉橋
橋長:41.50m/幅員:27.27m/形式:アーチ橋/完成:昭和2年/(拡幅部)橋長:26.90m/幅員:6.16m/形式:桁橋/完成:昭和47年/行政区:中央区/河川名:東横堀川
末吉橋は、南蛮貿易で活躍した【平野】の豪商【末吉孫左衛門】が架けたと言い伝えられている。その【末吉家】の別邸が橋の西詰にあったとも言われている。江戸時代の末吉橋は町橋で、橋筋の町々の醵金によって維持されていた。末吉橋は明治43年、市電第3期線の事業で、鋼橋になり、その後、第一次都市計画事業によってコンクリート製のアーチ橋が架けられた。隣接した長堀川の安綿橋と同じデザインになっており、統一性のある風景を作っていた。戦後、長堀川が埋め立てられとき、拡幅されて今日に至っている。
・・・この橋を【末吉】さんが架けたというのは、ほぼ間違いのない事実だと思います。
・・・話はもどりますが、「平野橋」の親柱がビルの片隅にあるという情報をいただきましたので、調べてみました。
★芸文社ビルディング/大阪市中央区平野町1-6-15
ビル7階に(株)芸文社オフィスがありました。たぶん、次の出版社だと思います。
【参考】芸文社(旧商号公友社)
http://www.geibunsha.co.jp/
170-8427東京都豊島区東池袋2-45-9/03-5992-2065
1945年(昭和20年)11月1日、公友社として創業。主に自動車関連の雑誌や書籍を得意とする出版・広告企画・イベントの総合出版社。
・・・「平野橋」親柱の形によく似たのをどこかで見た気がするので、画像を探してみますと、
◆淀屋橋センタービル
541-0043大阪市中央区高麗橋3-4-10
1998年3月竣工、ビジネス街の中心に位置し、ビジネス環境は良好です。近代的かつメガフレーム構造で耐震性にも優れたオフィスビルです。
★「神宗」淀屋橋店
淀屋橋センタービル1階/0120-39-1600
神宗の歩みは、天明元年(1781)、初代・神嵜屋宗兵衛が大坂・靭に海産物問屋(三町問屋)を構えたことから始まりました。いま皆様にご愛顧いただいております品々の原型が創り出されたのは、その後、嘉永年間 に京町堀(元ざこば)へ移った頃。以来、海産物問屋として鍛え上げた材料を選ぶ眼と極め尽くした技、品質への妥協を許さない高い心意気を連綿と伝え継いでまいりました。北海道道南産の天然真昆布だけを使い、独自の加工法を用いた塩昆布をはじめ、鰹昆布、ちりめん山椒、鰹田麩などいずれも、品質と味覚の向上に日々精進を重ね、いつも一番おいしい味をお客様にお届けしております。平成16年(2004年)淀屋橋店オープン。意匠等には当店所蔵の大阪中之島久留米藩蔵屋敷絵図(江戸時代末期の作品で現存する唯一の蔵屋敷絵)を用い、皆様のご愛顧、お引き立てをいただいております。
※大阪歴史博物館寄託
http://www.kansou.co.jp/about/culturalassets.html
◆雑喉場橋跡/大阪市西区江之子島1-9
かつてこのあたりに百間堀川がながれていた。川幅は30メートル程で江戸堀川、京町堀川、阿波堀川を集めて木津川に合流していた。百間堀川の東岸鷺島は、江戸時代より雑喉場の魚市と呼ばれ天満の青物市、堂島の米市とならぶ大坂三大市場の一つとして、大坂人の台所をまかなっていた。その当時の雑喉場はことのほか活況を呈し大坂商人の商人魂を培っていた。しかし、300年の歴史を持つ雑喉場も昭和6年の中央卸売市場の開場によりその歴史を閉じた。江戸後期、雑喉場から百間堀川をこえて、対岸の江之子島に架かる橋は、上之橋、下之橋の2橋があった。明治に移り、7年に江之子島に大阪府庁舎が建設され、その翌年、大阪で5番目の鉄橋として下之橋とほぼ同じ位置に雑喉場橋が架けられた。その後2度改築されたが昭和39年に百間堀川の埋立てとともに、雑喉場橋も姿を消した。雑喉場橋はこの碑の東側にあたり、この親柱は大正11年改築時のもので、その上の照明灯は当時の姿を復元したものである。
【参考】雑喉場魚市場/大阪市西区江之子島1-8
豊臣政権下、当初天満鳴尾町(現在の北区天神西町)に居た魚商人らは、開発が進む船場へと移り、靱町・天満町(のち本靱町・本天満町。現在の中央区伏見町1丁目・2丁目)が形成された。このうち生魚商17軒が1615年(元和元年)に南へ移転し、上魚屋町(現在の中央区安土町1丁目)が形成された。しかし、船場でも東横堀川寄りのこの地は魚荷の集散に不便であった上に、酷暑の時期は生魚が腐敗するおそれがあった。そこで生魚商たちは漁船の行き来のある京町堀川下流の鷺島(現在の西区京町堀3丁目・江戸堀3丁目)に出店(荷揚場)を設け、毎年4月から8月まで出店で取引し、9月から翌年3月まで沖揚げといって、その期間は本店に帰った。沖揚げ期間は仲仕あるいは船で魚荷を上魚屋町まで輸送させたが、多くの仲仕は鷺島付近に住んだ。近隣の西成郡野田村・福島村などから雑魚類を鷺島に持ってきて販売する者も出てきて、鷺島の称は廃れ、雑喉場と称するようになった。大坂の二大航路である安治川・木津川の分流点である川口にも近く、魚荷の輸送に有利な雑喉場は生魚市場に適していたため、本店を上魚屋町から雑喉場へ移す者が続出し、ますます栄えた。ちなみに、靱町・天満町に留まっていた塩干魚商らも同様の悩みを抱えており、1622年(元和8年)に下船場へ移転して新靱町・新天満町・海部堀川町を形成し、靱の海産物問屋街へと発展した。また、塩干魚商らの移転により、船場の靱町・天満町は本靱町・本天満町に改称された。雑喉場では1720年(享保5年)に問屋が50軒、1736年(元文元年)に56軒となり、1772年(明和9年)、問屋株は84軒となり、冥加銀9貫目を上納するまでになった。雑喉場と靱の両問屋は起源が同じで、雑喉場は生魚のほか、塩魚も売買し、靱は塩魚のほか、生魚も売買したが、ついに両問屋は営業の範囲をめぐって訴訟沙汰となり、1781年(天明元年)以降数回にわたる訴訟の結果、雑喉場は生魚を、靱は塩魚および乾イワシを取り扱うことになった。雑喉場問屋は鮒魚仲間から営業範囲侵害について訴えられたこともある。雑喉場の魚市は朝、昼、夕と1日に3回立ち、九州、四国、中国および淡路、和泉、紀伊、伊勢、志摩など各地の魚荷をほとんどすべて独占的に引き受けた。嘉永年間の株仲間の再興ののち、雑喉場生魚問屋は42軒であった。幕末期には天満の魚市場が天神橋北詰に復活したが、府庁・市役所の至近地でもあった雑喉場は生魚の主たる市場として、1931年(昭和6年)3月に大阪市中央卸売市場が開設されるまでその地位を保った。なお、1913年(大正2年)には北隣の江戸堀南通に青物市場が江之子島より移転し、1923年(大正12年)に雑喉場北青物市場に改称したが、こちらも大阪市中央卸売市場開設に伴い廃止となった。町名としては江戸時代より「雑喉場町」があったが、1872年(明治5年)に京町堀通・京町堀上通・江戸堀下通のそれぞれ5丁目に改編された。現在の西区京町堀3丁目の西部・江戸堀3丁目の南西部および新なにわ筋を挟んで江之子島1丁目の東端部にあたり、「雑喉場魚市場」の碑が江之子島に立っている。
・・・「神宗」さんの包装デザインに「蛸の松」がありました。
【参考】蛸の松
大阪市福島区福島1丁目にある松の木の名称。堂島川の右岸・田蓑橋北詰の袂にある。最初の蛸の松は、堂島川の左岸・現在の田蓑橋南詰のもう少し下流側、玉江橋との中間ぐらいの位置にあった。枝振りが蛸の泳ぐ姿に見えるということから、「蛸の松」と呼ばれるようになった。その松の木は慶安年間に福島正則が植えたといわれており、その後、すぐ近くに屋敷を構えていた浅野氏が毎年扶持十石を与えて維持したという。 しかし、明治44年(1911年)についに枯れてしまった。その切株の一部は、現在も大阪教育大学の天王寺キャンパス内に保存されている。なお、現在の蛸の松は平成16年(2004年)に護岸工事の一環として植えられたものである。
・・・もっとそっくりな親柱を発見しました。
◆撞木橋跡/大阪市西区江戸堀1-4-23(撞木橋ビル1F)
西横堀川から西へと分岐して流れる江戸堀川に架かっていました。