・・・クラフトパークの素晴らしさに圧倒されました。見るだけでも十分楽しめるところです。
・・・長原遺跡と八尾南遺跡は弥生時代、同一集落だった(距離にして徒歩約20分)というので、八尾南までやってきました。
◆八尾南遺跡の記念碑(地下鉄谷町地線八尾南駅前)
地下鉄谷町線の八尾南駅は、1980年11月に開業し、今では1日の乗降客は約1万5500人(1996年10月調査)を数えます。八尾南駅は八尾市若林町1丁目に所在します。松原市にも大和川の南に若林町があります。松原市は1955年2月1日、中河内郡松原町・天美町・三宅村・布忍村・恵我村が合併し、誕生しました。このうち、恵我村若林は大和川によって南と北に分断されていましたが、松原市若林町として再出発しました。ところが、現八尾南駅のある北若林地区は松原市域でありながら、大和川の北にあたるため、何かと不便なことが多かったのです。このため、1964年4月1日に松原市から八尾市に編入されました。つまり、八尾南駅から南部は歴史的には松原市域だったのです。北若林の人々のお墓や檀家寺・氏神社は松原市若林にあります。さて、谷町線が天王寺から八尾南へ延伸されるのに伴い、北若林は急速に開発化されました。編入当時は42世帯、人口207人の純農村でしたが、今ではビルが林立しています。
開発と平行して、各次にわたる発掘調査が行われた結果、これまで遺跡が未確認であった当地がきわめて学術的に価値の高い遺跡地であることが判明したのです。1万数千年前の旧石器時代のナイフ型石器などが数千点も出土しました。これらの中には、西接する長原(ながはら)遺跡(大阪市平野区)出土の旧石器と同じ層序のものがあったり、サヌカイトから石器を作りだす技術方法を教えてくれるものがあるなど貴重な資料が含まれています。旧石器人は、若林や長原一帯をハンティングゾーンの一拠点としていたのでしょう。また、旧石器時代に続く縄文・弥生・古墳時代などの遺構や遺物もたくさん発掘されました。とくに、古墳時代中期の集落跡は、木製鞍の出土や馬屋的な遺構などから馬の飼養を行っていた人々の居住地かとも推測されています。彼ら各世代の墓も方墳14基見つかりました。遺跡地は八尾南遺跡とよばれ、八尾南駅から大和川に接したあたりまで広がっています。大和川は江戸時代に流路を現在のように変えましたので、同遺跡は大和川を越えて南の松原市若林へも続いていた可能性があります。遺跡名は、行政区域にこだわらず、例えば若林遺跡といった方がすっきりするでしょう。大和川の土堤に立ってください。足元には、旧石器時代以後の遺構や遺物が眠っているかもしれません。近くの瓜破遺跡(大阪市平野区)や船橋遺跡(藤井寺市・柏原市)も大和川の川底から遺構や遺物が見つかっています。もと「松原人」の八尾南出土遺物は、高安山麓の八尾市歴史民俗資料館に展示されています。
※別所遺跡/松原市別所7~9丁目
市域の北東に位置する古墳時代・奈良時代・中世の集落遺跡で、その範囲は大阪市との市境界にまで及びます。北側の大阪市側では、長原遺跡となります。また本遺跡内には、中世には「別所城」と呼ばれる城砦があったと伝承されています。発掘調査では、城砦の痕跡は見つかりませんでしたが、奈良時代の大型掘立柱建物跡と井戸跡が発見され、多数の土師器や須恵器が出土しました。また、本来古墳に飾られるべき円筒埴輪が整地された土層の中から多数散乱した状態で発見されました。おそらく奈良時代に付近にあった古墳を破壊して、宅地や農地に替えたものと思われます。別所村の古絵図に「山」と記された箇所がることや近年まで付近に小山が存在していたものが、おそらくその名残りでしょう。隣接する長原遺跡では、多数の破壊された古墳が発掘調査で発見されており、長原古墳群と呼ばれています。大和川も市境界もなかった古墳時代、長原古墳群は大きく広がっていたのでしょう。
◆ミキハウス本社
581-8505八尾市若林町1-76-2/072-920-2111
子供時代にこそ、たくさんの世界と出会い、本物の感動を経験してほしい。キラキラとした目でまっすぐに未来を見つめて力強くしなやかに歩んでほしい。夢を持つことの素晴らしさと、夢に向かう努力の尊さに気づいてほしい。ミキハウスは創業以来、様々な企業活動を通して、子どもたちの健やかで豊かな成長を心から願ってきました。すべての子どもが持っている大きな可能性、その可能性をたくましく豊かに育ててあげることが、私たちの役割だと思っています。モノづくりにおいては、素材、機能性、デザインなどすべてにおいてより高い品質を追求し続けています。子どもたちの肌に触れるとき、家族の笑顔に寄り添うとき、贈る気持ちに応えるとき…。世界中のたくさんの方に、ミキハウスの商品と出会う喜びを感じていただけるように、これからも努力を続けます。子どもの教育や、スポーツの応援を通して、大好きな人や大好きなものと過ごすときの子どもたちのキラキラとした目の輝きや、目標に向けてまっすぐに歩む若者たちの圧倒されるような力強さに出会いました。「人と人のつながり」「目標を持つこと」「努力すること」「感動すること」「思いやりと感謝の気持ち」などの大切さを学びました。限りない可能性を持つ子どもたちに、こうした素晴らしい財産を残していきたい、と強く思うようになりました。「夢」の持つ大きな力を信じ、これからも様々な活動をしてまいります。子どもたちと家族のシーンが、いつまでも心に残る幸せなものであるように。子ども達の笑顔と夢が、大きく大きく花ひらくように。未来に向けて、子どもたち一人ひとりが個性豊かに輝けるように。
★ミキハウスレッド
1971年。父親母親になりたての若い夫婦が、自分たちの力を試してみたいとの思いでスタートしたミキハウス。こだわったのは2つ。とにかく品質を大切にしたこと。そして誰かに喜んでもらいたいという思い。こだわりぬいたサンプルを持参しながら、まず小売店の要望を聴く営業スタイルは、やがて、オシャレで、機能的で、色あせない、そして子どもの笑顔に似合う服を次々に生み出しました。それまでどこにもなかった「ミキハウスレッド」と呼ばれる赤。それは、子どもたちの元気と輝くような未来を象徴する色であると同時に、男の子にも女の子にも、不思議と似合う魔法の色でした。ブランド名も、「MIKI」から「MIKI HOUSE」となり、同時に元気さ、あたたかさ、やさしさを感じさせる「MIKI HOUSE」のロゴが誕生しました。
【参考】(財)大阪市文化財協会
1979年7月1日 事業開始、事務局(中央区法円坂1-6-48)・長原分室(平野区長吉長原東3-1-62)を設置
1981年7月 土地区画整理事業に伴う長原・瓜破遺跡の発掘調査開始
1983年10月 加美遺跡で方形周溝墓群の調査を開始(~85年3月)
1984年2月 平野区画整理記念会館「平野住民大学講座」年7回開催(~継続中)
1989年7月 復原古代船「なみはや」、釜山へ航海実験
1990年4月 長原分室を旧大和川小学校(平野区長吉長原東3-2-5)へ移転、保存科学室が稼働
1990年6月 「長原文化財講演会」始まる、年3回開催
1990年6月 大阪市埋蔵文化財収蔵展示室を公開
1995年10月 長吉東部地区土地区画整理事業に伴う発掘調査開始
1996年2月 長吉分室(平野区長吉出戸7-12)を設置
1996年4月 難波宮・長原・長吉分室をそれぞれ難波宮・長原・六反調査事務所(~2003年5月)に改称
1996年10月 細工谷遺跡の発掘調査(~97年9月)
2001年3月 長吉瓜破地区土地区画整理事業に伴う発掘調査を完了、報告書は2003年3月に完了
2001年5月 大阪歴史博物館管理運営業務を受託
2001年11月 大阪歴史博物館開館
2010年4月1日 寄付行為を変更し、名称を「大阪市博物館協会」へ改称する
・・・「八尾南」から、時空を越えて「なにわの海の時空館」へ。
★「古代研究」第9号『古代船の再現』1999年5・6月号
10年前、大阪の長原高廻りから出土した舟形埴輪を10倍の大きさにし、実際に木造船として作ってみました。現在の船の構造設計者によると、とても構造的に船にならない、ということでしたが、直径2mの丸太をカナダから輸入し、埴輪を忠実に模することにより、全長12m、8人漕ぎの古代の準構造船を再現したのです。この船を”なみはや”と名づけ、実際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に安定が悪く、そのうえなかなか進みません。50cmの高さの波がきただけでもバランスを失ってひっくり返りそうです。1mもの波がこようものなら漕ぎ出すのは到底無理なことです。また喫水が浅いため少しの風でも倒れそうになるので、天理の東殿塚古墳から出土した土器の絵のように、帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に無理なことでした。結局、船を安定させるため何百キロという重りを底に入れて、大学のボート部の学生に、古代の人が渡ったであろうと思われるコースで、玄界灘を越えて韓国に向けて漕いでもらったわけですが、これが殆ど進みません。そのまま漕いで行っても、一体何日かかれば港に到着するのか、見当がつかないほど進みません。10年たった今だから言えるのですが、韓国の港では、学生達が古代の赤いたすきの衣装に着替えて、ずっと8人で漕いできたかのように振る舞ってもらっていましたが、実のところは夜間、他の船に牽引してもらっていたのです。(財団法人 大阪市文化財協会 調査部長 永島暉臣慎さん)
※大阪市の難波宮跡に近い法円坂建物群(5世紀の高床式建物跡が16棟発掘された)の復元建物の隣に財団法人大阪市文化財協会の手で保管され、通常は幌テントに覆われていて見ることはできないが、月に何度か一般公開れていた。その後、「なにわの海の時空館」に野外展示されています。
・・・そうなんです。以前にも来ましたが、「古代船なみはや」は気にもとめていなかったので、あらためて観察・見学させてもらいました。
◆なにわの海の時空館【2013年3月10日で閉館】◆
559-0034大阪市住之江区南港北2-5-20/06-4703-2900
大阪市市制100周年記念事業の一つとして建設、2000年(平成12年)に開館した。大阪市港湾局が施工し、総工費176億円だった。建築は世界的に著名な建築家ポール・アンドリューの作品で、ユニークな4208枚のガラスのを用いたドーム型の建物。英国構造技術者協会から2002年(平成14年)に特別賞を受賞。エントランス棟とドーム型の展示棟があり、両棟は海底トンネルで繋がっている。「WORLD WINDOW水平線の彼方へ」「WORLD WINDOWキャプテンとなって」「柳原良平氏コレクション展示・アンクル船長ギャラリー」「バーチャル解説員」など。2006年度(平成18年度)より指定管理者制度に移行し、大阪ガスビジネスクリエイト株式会社が管理運営を受託した。2010年(平成22年)には、開館10周年を記念してリニューアルが実施された。年間60万人の入場者が見越まれるとして作られたなにわの海の時空館であったが、入場者は初年度の20万人が最高で、2008年(平成20年)度には入場者数が10万人を割り込んだ。2009年(平成21年)度は10万人台に回復したものの、実体は入場者の6割以上を社会見学の小中学生等の無料入場者が占めていた。毎年の赤字は3億円以上にのぼり、2010年度(平成22年度)の大阪市事業仕分けで「廃止」が妥当と判定された。その後、大阪市は2013年(平成25年)2月8日、閉館日を同年3月10日と発表した。橋下徹大阪市長は閉館前の2013年2月28日の定例記者会見において「当時の市の責任だが、よくこんなものを作ったものだ」、「自分たちの責任として、担当部局に頑張ってもらうしかない」と酷評している。
・・・さて、「古代船なみはや」と「時空館」は、これからどうなるのでしょうか。