茨木神社のつづき。
平安時代の延長五年(927年)編纂された延喜式巻第九に摂津国島下郡十七座の一つとして、天石門別神社の名が記されています。それは、天石門別神社が編纂当時に官弊社として尊崇されていた神社であったことを意味し、今日では特に式内社と呼ばれます。爾来、中条村・茨木村の氏神として広く国主領主をはじめ多くの人々の崇敬をあつめました。中世に入り楠木正成公が村近くに砦を築いて後、戦国時代には城郭が整えられ惣構形成の過程で、茨木村はそれまでの農村的集落から城下町へと変貌し、天石門別神社も現在地へ奉遷されたのでした。中川清秀公も当社への崇敬の念篤く、当社への狼藉を厳しく禁止する禁制の高礼を掲げるとともに、天正八年(1580年)には神領十三石を寄進しました。この時代、摂津名所図会(寛政十年・1798年)及び社伝によると高槻城高山右近が、織田信長に倣い神社仏閣を焼却するに際し、信長が天照大御神、春日大神、八幡大神及び牛頭天皇(素盞嗚大神)の諸社は焼くべからずとしたので牛頭天皇を祀ると詐称して焼却を免れたと伝えられています。そして、元和八年(1622年)牛頭天皇、春日大神そして八幡大神を祀る社殿を新たに築いて本殿とし、天石門別神社を奥宮として今日に至っております。明治五年、明治の社格制度により茨木神社が郷社に列せられますが、氏子による元宮天石門別神社への社格授与嘆願運動が起こり、明治十二年郷社に列することとなり、一境内に郷社が二社ある全国にも珍しい神社でもあります。昭和二十一年、神社制度の改革により宗教法人として新たに発足し現在に及んでいます。
・・・これまでに神社はいろいろ行ってますが、ここは独特です。
●黒井の清水/茨木市元町4-3
豊臣秀吉の茶の湯にも供され、赤井の清水・青井の清水とともに古くから嶋下郡三名水と言われていました。
「黒井の清水大茶会」は、戦国時代、豊臣秀吉が茨木に立ち寄った際、ここの水をたいそう気に入り、大坂城で茶会を行う際に、茨木まで水を汲みに行かせ、この水を茶の湯として使用した、という逸話にちなんで行われているイベントです。当日は、お茶席(有料)の他、茨木市物産振興協会による茨木の物産品の即売会やお楽しみ抽選会、お茶会に使用する水を使った喫茶コーナー“黒井のcafe”、等が出店します。
※赤井の清水/天石門別神社の床下に「赤井」があり、西に「黒井」があって共に名水という。
※五名水(別の場所にもう一つの赤井があります)
・赤井の清水/茨木市東福井2「真龍寺」
・青井の清水/茨木市室山1-7-8「慧光院」
・黄井の清水/茨木市下井町?
・白井の清水/茨木市耳原公園あたり?
◆茨木童子
昔、水尾村のある農家に男の子(茨木童子)が生まれた。母の胎内に16ヶ月もいたので、生まれた時には歯がはえ揃っていたとか。すぐに歩き始めたという。難産だったので母はすぐに亡くなり、父が童子を背にもらい乳をするため村中を廻った。童子の飲みっぷりはすさまじく、たちまちお乳が上がってしまうので、誰も相手にしなくなった。父はある日、童子を籠に入れて九頭神(くずかみ)の森(現在の茨木高校付近)に捨てた。それを床屋の主人が拾いあげ、大切に育てた。床屋の手伝いをしていた童子がある日、客の顔を剃っていた時に、誤って客を傷つけてしまった。童子は吹き出した客の血をとって舐めた。血の味を知った童子は、その味が忘れられない。その後、わざと客に傷つけて舐めるようになってしまった。うす気味悪がった客は、店に来なくなり、床屋はさびれる一方となった。床屋の主人に厳しく小言を言われた童子は、ある日近くの小川の橋の上から川に映った自分の顔を見ると、それは鬼の形相をした自分の姿であった。童子は驚き店には戻らず、茨木の町をあとに丹波の山奥に行ってしまった。そして、大江山の酒呑(しゅてん)童子のもとに行き、茨木童子と名乗って副将格になったという。その小川の橋は以来、茨木童子貌見橋(すがたみばし)と名づけられ、後の世まで語りつがれている。床屋と小川のあったといわれる所に、その橋の碑が立っている。
●「高橋」西南隅道標
右茨木停車場、左大阪 距 高麗橋減元標 四里二十四丁拾間
◆茨木中央公園
茨木市駅前3丁目8番13号(市役所)
★被爆石
茨木市民のみなさんへ被爆庁舎の前庭の敷石をお贈りします。この石が、核兵器廃絶と世界の恒久平和の実現という広島の悲願を訴える生き証人として、茨木市民のみなさんとともに生き続けることを願っています。 平成3年(1991年)12月 広島市長 平岡敬
この石は昭和20年(1945年)8月6日、広島に投下された原子爆弾により被爆した敷石です。本市の「非核平和都市宣言」の趣旨に基づき、悲惨な戦争と核兵器の惨禍を二度と繰り返さないよう平和への願いのシンボルとして、また後世に伝える証人として、ここに永遠に設置します。 平成3年(1991年)12月 茨木市長 重富敏之
なお、被爆石の右横には非核平和宣言が書かれています。
★非核平和都市宣言
世界の平和と安全は全人類の願望であります。にもかかわらず核軍拡競争はとめどなく拡大しており、私どもは生存の危機に立たされています。日本は世界ではじめて広島・長崎の原爆の被災を受け、今もなお数十万の人々がその後遺症に苦しんでいます。再びその惨禍を繰り返させず、人類を滅亡から救うために核兵器の使用を許してはなりません。私たちは太平洋戦争の苦しみの中から世界に誇るべき平和憲法を制定しました。その精神に基づき核兵器の廃絶を世界の人々と共に強く主張し、「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則の厳守を政府に求めます。更に市民に向けて平和のための諸施策を推進することを誓い、ここに「非核平和都市」とすることを宣言します。
昭和59年(1984年)12月17日
この宣言は茨木市議会が決議し、議決されたものであります。
・・・今日、8月9日は「長崎原爆忌」です。
●「VISIONARY-流体」h600×w240×d240 (cm)/1992
制作:松本薫
旧茨木川に整備された中央公園は、その川のなごりをイメージした憩いの空間です。その公園の北側に立つモニュメントは、2本の三角柱が幾何学的に蛇行しながら、空に向かい無限に繰り返されています。「VISONARY(幻影)-流体」は旧茨木川を「幻影」として表現しました。勝尾寺川を源流とする茨木川は、神崎川に流れ込み海に望みます。三角形は、天・地・空と考え旧茨木川の記憶として水の循環を空間に表現しました。できれば、モニュメントの周りを一周し、眺め、形や光の変化を感じながらあなた自身の想いと対話してみませんか、きっとそんなメッセージが受け止めて頂けると信じています。
★「HUB-IBARAKI ART COMPETITION」
芸術のまち茨木の明日を担う若手芸術家の発掘と発表の場を提供することにより、人と人との世代を超えた交流を促し、地域の芸術文化の発展に貢献し、コミュニティの豊かな暮らしに繋げるためのネットワークの中心、「HUB(ハブ)」のような存在になることを目指した展覧会です。そのため作品そのものだけでなく、いばらきのまち・人・ものと関わりながら作り上げていく制作過程もが選考基準という、従来とは違う新しい形の公募展です。
・・・茨木市には、いろいろなパブリックアートが設置されているだけでなく、若手芸術家育成事業を展開されているなんて、やっぱり「おそるべ市」ですね。