関西支部のおすすめ | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・まもなく8月。どうしても7月中に紹介しておきたいことがあります。今年の「蓮取り行事」や「蛙飛び行事」に行けなかったこともあって、せめて「捨篠池」の「蓮」だけは見ておきたいと思ったのです。


すて1


捨篠池

奥田のはす池(弁天池)とも呼ばれる毎年7月7日に奥田の蓮取り行事が行われる場所。蓮取り行事は、蛙飛び行事(蓮華会)が行われている吉野山金峯山寺蔵王堂に献花する蓮華を取るもので、明治の初めに一旦途絶え、蓮も昭和20年前後の混乱期に全滅。しかし、その後平成年から蓮を植え付け蘇らせ、さらに平成年(1997)、大和高田市市制50周年を契機に蓮取舟(おくだ丸)を新調し、蓮取り行事を復活させました。


すて2


・・・着いたのが昼を過ぎていましたので、開花している蓮はほとんどありませんでしたが、美しい蓮池を満喫することができました。


すて3


捨篠神社(奥田弁天神社)635-0052奈良県大和高田市奥田字舞台470

捨篠池の南岸に鎮座します創建は不明ですが、古来より奥田の氏神として崇敬されてきました拝殿前の石灯籠には元禄4年(1691)の銘が有ります狛犬は文久4年(1864)の奉納です祭神市杵島姫命神像は船形後背付きの市杵島姫命像で、延宝8年(1680)の奉安です神域は安芸の宮島を模し、「厳島神社」とも称されます蓮取り舟で、捨篠池の蓮華を採取する絵馬が残っています

弁天様と役行者との係わりは色々ありそうです。箕面の滝での修行中に弁天様が行者を守っていたこと。名張での雨乞いの際、弁天様が行者の助力をしたこと。弁天様は池の中に鎮座される場合が多く、池の守り神や水神でもあり、捨篠池の守り神でもあったのでしょう。

「捨篠」については、、『先代旧事本紀地神本紀』に「味高彦根神坐倭国葛上郡高鴨神云捨篠社」とあります。この高鴨神とは御所市鴨神に鎮座する高鴨神社のことであり、近年の小字名は捨篠でした。おそらくこの「捨篠」は高鴨神が先にあって、後に役行者の出自が高賀茂氏であることから捨篠の地名が伝わり、刀良売の伝承をも形成したと考えられます。「捨篠」とは武装解除のこととする見解もあります。高宮の跡地は篠が生え茂っており、かっての高鴨神社の付近も篠が生い茂っていたのでしょう。篠は吹き矢か矢としてしか役にたたないものと考えられ、これを捨てる神事は往年の鴨族の屈服の証としての祭りでした。弁天社にも篠が生えており、これを知った者が捨篠神事を伝えたのかも知れません。



すて4


興井山善教寺

635-0052奈良県大和高田市奥田4850745-52-7604

浄土真宗本願寺派の寺です。善教寺略縁起によれば、天武天皇の白鳳3年(674)に役小角が創建した捨篠院の旧跡であるとされている。文明3年(1471)年に奈良春日社の中川民部が葛城郡勝目(かじめ)村に来て、剃髪し善西(ぜんさい)と名のり、同15年(1483)この地に移転し真宗の道場としたといいます。現在の本堂は、文化3年(1806)に再建されたもので、本堂前右側に役小角の産湯の井戸の跡があります

役小角の出生については、次のような逸話が伝えられています。小角の父・役角麻呂(えんのつのまろ)は刀良売を娶ったが、40歳になっても子供に恵まれないのを嘆き、味鋤高彦根(アヂスキタカヒコネ)神の荒魂を祭神として祀る蓮池に夫婦で参拝する日々を繰り返した。その甲斐あってか、ある日のこと刀良売は天から金色の独鈷(どっこ)が雲に乗り、口の中に入る夢を見て妊娠した。しかし、角麻呂が病死したので、刀良売は寡婦となって父の家に帰った。翌年の舒明天皇6年(634)正月元旦、刀良売が蓮池に詣でて安産を祈ると、不思議なことに池の中から法螺の音が聞こえ、陣痛を感じたので、かたわらの井戸水を汲んで口を漱ぎ、もう一度神を拝んで家に帰った。すると、たちまち一子が生まれた。刀良売は夫の角麻呂の一字を取って小角と名付けた。そのとき口を漱いだ井戸が、善教寺の境内にあった古井戸だと言われています


すて5


◆蓮池山「福田寺」行者堂

635-0052奈良県大和高田市奥田4960745-60-6338

善教寺の西に位置しています。役の行者の誕生所といわれ、その母(刀良売)の住地と伝えられています。行者堂ともいい、旧捨篠院とも言われています。その行者堂には、前鬼と後鬼を従えた役小角の像の横に、小角の母・刀良売の寝像がおかれています。二上山をバックに、右手で肘をついて寝像の形をしていますが、目はパッチリ開き、唇は赤く染め、口は開いて、まるで参拝者をジロジロ眺め回しているようで。釈迦の涅槃像に比べると、いかにも人間味が感じられる像で。また門を入った右側に小さい地蔵がいくつも並んでいます。日焼けで雨がほしい時はこの石地蔵の小さいのを選んで、縄でしばり、堂の南側の蓮池(はすいけ)に放り込むと、投げ込まれた石仏は「雨を降らしてやるから出してくれ」と言い、必ず雨が降るといわれ雨乞いの地蔵として知られています。

住職不在の荒廃した時代もありましたが、現在の本堂や庫裏は新しく綺麗になってます奥田区と有志の方々の御尽力平成14年に一新しました。白い砂利と石畳の大変清潔な境内となり、蓮が開花する7~8月には一年で最も美しい行者堂を拝観して頂くことが出来ます。

奥田という地名は、中世には興田(おきだ)と書き、近世には沖田とも書いたそうです。「興田」とは田部の屯倉(みやけ)を興(おこ)した所というのが語源のようです。『日本書紀』の景行天皇57年10月の条には、「諸国に令して田部屯倉を興てた」と記載されています。屯倉とは大化改新以前の朝廷の直轄領のことであり、田部は屯倉耕作のため地方豪族配下にあった農民を割いて設定した部民のことです。ただ、専門家によると、推古朝以前の屯倉設置の記述はあまりあてにならないそうです


・・・福田寺行者堂から西の道を北に200mほど行くと、母「刀良売の墓」があるのですが、またの機会に参拝したいと思います。