・・・白鳥神社の祭神「牛頭天王」は、渡来系の神であるところから文氏(渡来氏)の氏寺「西琳寺」との関連もあるのではないかと思われます。
◆西琳寺
583-0852羽曳野市古市2丁目3-2/072-956-0603
●道標
「右 上ノ太子弘川寺西行古跡 たゐまつぼ坂大峯山上」
「左 大坂さかい道」文化十年(1813)の建立
昔は西に東高野街道を、南に竹之内街道を控えた角地に位置する壮大な寺院だったようです。南北約150m、東西約150mの寺域に、東に塔、西に金堂を配する法起寺式で、塔は五重であったと推定されています。鎌倉時代の記録には、「東限は飛鳥庄、西限は羽曳山、南限は喜志庄、北限は誉田陵北」とあり、広大な勢力範囲であったことがわかります。
創建の由来は、鎌倉時代中期に編纂された『西琳寺文永注記』では所伝に従って、欽明20年己卯の年(559)に、文首阿志高、その子支弥高らが建立したとされています。寺院研究で有名な石田茂作博士は、伽藍配置と出土する屋根瓦の年代から飛鳥時代中期以降と考えておられます。その後の諸説の中でも、欽明20年から干支を一巡下げて推古27年(619)の己卯の年にあてるのが、有力になっています。開基については渡来系有力氏族としてこの地に拠った河内の文氏、すなわち西文氏の氏寺と解されています。
石田茂作博士は、昭和初期に、寺域内3ヶ所の基壇跡から伽藍配置を想定されました。戦後、礎石の根石列を検出しましたが、寺域の全容を解明するには至りませんでした。その後、大阪府教育委員会の調査では回廊跡の礎石根石が確認され、平成6年には羽曳野市教育委員会が伽藍中枢付近の発掘を行い、多数の瓦が出土しました。このときに、壮麗な模様が施された鴟尾も発見されました。鴟尾は高さが1.3mあり、腹部に宝珠、火焔宝珠、蓮華紋などを浮き彫りにした、類例の無い優品です。
これらの調査成果から、法起寺式伽藍であったことが推定されています。西琳寺境内に残る塔心礎は、長辺3.2m、短辺2.8mの方形に近い形で、高さ1.9mを測る巨大なものです。上面中央には四方に付き出した添柱孔のある柱穴があり、柱穴の一側壁に舎利孔があります。また柱穴の底面に「刹」の字が刻まれていますが、後刻説もあります。
※西淋寺には、万が一の時の復興資金として「黄金の平瓦」二枚が蓄えられていました。ところが天正三年(1575)四月、織田信長の河内攻めの際、多くの寺宝と共に黄金の平瓦二枚も井戸に投げ込んで隠し、織田軍の略奪から免れたと言われています。当時の西淋寺には五つの井戸があり、そのうち三つの井戸は発掘されているのですが、残念ながら黄金は発見されませんでした。のこる二つの井戸はの場所は不明で、古の西淋寺の寺域の大部分が、現在では民家が建ち並び、古市の町の一部となっているところから、この町のどこかに黄金は眠っている・・・という話もあります。
◆高屋宝生院跡
西琳寺の南に小高い高屋丘陵が存在する。その一角に鎌倉時代中期の永仁2年(1294)に、西琳寺の奥院として高屋宝生院が造営される。寺の正確な位置は不明だが、安閑陵古墳の北東付近と推定されている。造営後しばらくして、境内の一角に5基の五輪塔が建立されたことが文献から知ることができる。高屋丘陵は室町時代に畠山氏の居城として高屋城が築かれた。畠山氏は、幕府の管領であった河内国守護でもあったが、家督相続をめぐって内紛が勃発し、その後応仁の乱を引き起こした人物として有名である。この高屋城の築城により、高屋宝生院や5基の石塔も壊されてしまった。所在不明になっていた五輪塔は、昭和32年高屋城跡の土塁から、開発工事の土砂撤去中に偶然発見された。さらに蔵骨器も伴出した。発見された五輪塔は西琳寺の境内に移され、現在大阪府指定文化財となっている。これらの五輪塔は、西琳寺に関係した高僧たちの墓石であり、その内訳は、中央が開山の叡尊、東方が総持、西方が道明寺開山の超運尼、北東は浄意、北西が空忍の墓であるという。
・・・古市ポケットパークです。この前に、今はありませんが、古市を代表する建築物「銀屋」がありました。
・・・そして、東高野街道と竹内街道が交差する「蓑の辻」です。
・・・ここにも、レトロな建築物「商工会館」が建っていました。今後、どんどん新しい建物や環境に変わっていくことでしょう。だからこそ、私たちの生活に密着した新たな伝統文化を創造していかなければならないと強く思います。そして、何をどのように継承発展させていくのか、そのアイデアや方法が問われています。