ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・「竹内街道」からの寄り道です。


たい1


・・・何度も来ている「当麻寺」なんですが、なんとメインのお堂に入ったことがなかったのです。


◆【当麻寺】◆

奈良県葛城市當麻12630745-48-2001

當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍を有する古刹。金堂の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺としても知られています。本尊として祀られる「當麻曼荼羅」は、奈良時代、藤原家の郎女・中将姫さまが写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表したもので、中将姫さまを常に守護し、導いた守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの人々のよりどころになっています。1400年という長い歴史の中で、さまざまな変遷を繰り返しながら今に伝えられてきた當麻寺。もとは聖徳太子さまの弟・麻呂古王が創建した万法蔵院がはじまりで、白鳳時代に河内から當麻の地に移り、奈良時代に当麻曼荼羅が表され、平安時代には密教文化が栄えました。平安末の焼き討ちによる危機を経た中世以降は、中将姫伝説の広まりとともに曼荼羅信仰の寺として再興し、寺の向きも南面から東面に変わり、近世には、真言宗に浄土宗が同居することも受け入れました。


たい2


推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂古(麻呂子・まろこ)という親王さまが、兄である聖徳太子さまの教えによって「万法蔵院」を建立したのがはじまりとされています。いくつか異説がありますが、現在、大阪府太子町に「万法蔵院跡」と伝承される場所があります。万法蔵院のご本尊は弥勒さまとする史料と、救世観音さまとする史料があります。さて、親王さまはある時、万法蔵院を二上山の東麓に移すようにという夢を見られたそうです。二上山は大和では落陽を象徴する山ですから、山の東側こそ祈りの地として相応しいということだったのでしょう。しかし、壬申の乱の混乱で寺の遷造は遅れ、親王の存命中には実現せず、その夢を実現したのは親王の孫に当たる当麻国見でした。二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さまがお祀りされ、現在の當麻寺がはじまったのです。役行者さまの法力によって百済から四天王が飛来し、葛城山から一言主明神が現れ、熊野から権現さまとして竜神が出現しました。その時に行者さまが座った石は「影向石」として金堂の前に、熊野権現の出現した「竜神社」は中之坊に、今も残されています。こうして金堂と講堂のふたつのお堂を中心にはじまった當麻寺は、奈良時代に入ってから、東塔、西塔、千手堂(現・曼荼羅堂)、中院(現・中之坊)と、徐々に寺容を整えていきました。その間、当初は大和と河内を結ぶ竹内街道を正面とする南面した寺として建てられていたにもかかわらず、都が飛鳥から藤原京を経て奈良に移ったことにより、地の利を優先して東を正面とする寺に柔軟に変化しています。そうして最盛期の平安時代には白鳳・天平様式の伽藍堂塔と四十余房もの僧坊をもつ大寺院として発展し、その後幾多の盛衰を繰り返しながらも、江戸期にも三十一房の僧坊、現在も13の僧坊を残す大和の伝統寺院として今に伝わっているのです。


・・・今回、千手堂(現・曼荼羅堂)・講堂・金堂を見学させていただきました。そして、「竹内街道」との関係も体感することができました。


たい3


・・・お寺の「蓮の花」はしぼんでいましたが、古民家ギャラリーの展覧会を見ることができました。その中には「吉野かえる祭り」に関係する「蓮取り神事」の写真もあったりして、ラッキーの連続でした。


たい4


◆【相撲館「けはや座」】◆

639-0276奈良県葛城市當麻83-10745-48-4611

相撲の開祖『當麻蹶速』を顕彰する目的で平成2年の5月にオープンしました。館内には本場所と同サイズの土俵があり、小学校の遠足等によく利用されます。 展示土俵であるために自由に上がることができ、来館者に人気があります。また、所有資料も約12000点あり、特に書籍類、番付や星取表など充実しており学生のレポートや相撲愛好家によく利用されます。


・・・ここも、入館したことがなかったので、



たい5


日本書紀によりますと相撲の始まりとして「野見宿禰」と「當麻蹶速」の力比べが書かれております。「第11代垂仁天皇の時代に大和国の當麻村に夕刊で力の強い男がいました。その人物の名前は當麻蹶速といい、生まれつき力が強く、手で角をへし折り、曲がった鈎も伸ばしてしまうというほどです。彼は常日ごろから人々に向かって『周りを見ても自分と力を比べられる者はいない。なんとかして力の強い者とめぐりあい、ひたすら力比べをしたいものだ』と豪語しておりました。天皇はその人物について知り、家臣に向かって『誰か蹶速と対等に戦うことの出来る人物は知らないか』と尋ねた。すると、家来の一人が進み出て言いました。『出雲の国に野見宿禰という人物がおります。この人物を呼んで蹶速と戦わせては如何でしょうか』 そこで、その日のうちに野見宿禰を呼びにやらせました。垂仁7年7月7日に宿禰と蹶速の対戦がはじまりました。二人は向い合って立ち、それぞれ足をあげて蹴りあったが、たちまちに宿禰が蹶速のあばら骨を蹴り折り、さらに、腰骨を踏み折って殺してしまった。これにより、天皇は、蹶速の領地没収して、野見宿禰に与え、その後宿禰は、この土地にとどまり、天皇に仕えることになった」この力比べて勝者になった野見宿禰は相撲の神様として今も祭られております。敗者となった當麻蹶速も當麻寺参道沿いに「蹴速塚」があり、地元の人々に手厚く祀られております。


・・・さてさて、次に行くところが、今回の最大目的地なのです。