ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・「京街道」を歩いています。


かた1


・・・旧街道は自動車も少なく、整備されているのでとても気持ちがいいです。


かた2


万年寺山の緑陰

淀川沿いに細長くのびる旧枚方宿の町並みを眼下に見おろし、こんもりと突き出た丘が万年寺山です。摂津・丹波の山々や、豊かな淀川を一望に見渡せる風光明媚なこの丘は、京阪二都のちょうど中間にあり、数々の歴史の舞台となってきました。



かた3


・・・とてもお寺が多いなあという印象です。


意賀美神社枚方市枚方上之町1-12

この丘の上にある意賀美神社の境内には、古墳時代前期の万年寺山古墳があり、青銅鏡が八面出土しました。言い伝えによると、推古天皇(592~628)の時代、高麗(高句麗)の僧・恵灌が、この地の風景を愛で、眺めが唐の林岸江に似ているとして、草庵を営んだのが万年寺のはじまりです。一千年余の法灯を伝え、夕暮れを告げる晩鐘は人々に親しまれてきましたが、明治の神仏分離令により廃寺となり、仏像等は三矢(みつや)の浄念寺に移されました。参道の石段横には、今も「長松山萬年寺」と刻んだ石柱や十三重の石塔が苔むしており、往時をしのばせてくれます。近年、境内に植えられた多くの紅白梅が大きくなり、観梅の名所になっています。梅林の西にある豊臣秀吉の御茶屋御殿跡は、展望広場として整備された眺望の素晴らしいところです。


かた4


御茶屋御殿跡展望広場

豊臣秀吉は大坂城天守閣から街を見下ろし、自らの天下統一を実感した。その秀吉が好きだった枚方市の高い場所が、枚方元町「御茶屋御殿跡展望広場」。地元では知られたスポットで、あずま屋や散策路、御殿の案内板が整備されている。早朝や夕刻には犬を散歩させる市民らが姿を見せ、お年寄りの憩いの場にもなっている。標高約30メートルとはいえ、広場からは淀川や京街道、対岸の高槻市から、大阪市北部や京都南部までが一望できる。秀吉も天下人となり、茶を味わいながら、この景色を楽しんだという。1595年、秀吉は京都と大阪の中間点にあたるこの地に「御茶屋御殿」を建て、家臣の枚方城主・本多政康の娘、乙御前を住まわせた。本多氏の菩提寺・一乗寺(枚方市岡南町)の住職、文庫栄達さん(68)によると、「とても美しく、秀吉もぞっこんだった」という。秀吉はやきもち焼きで、乙御前に茶の湯や作法を教えた当時の住職との仲を疑った。住職は身の潔白を証明しようと自らの命を絶った。心を痛めた乙御前は、秀吉の正室・北政所から贈られた打ち掛けを袈裟に仕立て直し、寺に寄付したと伝わる。非公開だが、寺にはこの袈裟と、乙御前が北政所から授かり、秀吉に茶を入れたとされる茶釜が今も残るという。広場近くにある「意賀美神社」の境内の紅白の梅約110本は花が開き始め、淡い香りを漂わせる。見頃には梅林園まつりが開かれ、野点も行われる。豪華な御殿の面影は残っていないが、広場一帯はにぎわい、当時のように華やいだ雰囲気に包まれる。


かた5


御茶屋御殿

オーストリア・エッゲンベルク城の豊臣期大坂図屏風にも登場し、江戸時代の観光本「河内鑑名所記」には檜皮葺きの優雅な3棟の建物として描かれている。江戸時代に幕府公用の施設となり、2代将軍・徳川秀忠や3代将軍・家光が滞在したとの記録も残る。1679年、枚方宿で起きた火災で焼失後は再建されず、跡地が公園として整備された。



枚方田中邸のむく枚方上之町3番13号

樹高21メートル、幹周り5メートルを超え、樹齢600年といわれる巨木。ニレ科の落葉樹で、表面がざらざらとした葉は鋳物製品の研磨に用いられたと伝えられます。江戸時代に北河内で唯一正式に営業を許可され、庶民が日常生活に使う鍋・釜や農具、寺院の梵鐘などを鋳造していた田中家のシンボルでした。これほど大きなむくの木は大阪府内でも珍しく、昭和45年に府の天然記念物に指定されました。昭和35年頃に廃業した田中家の鋳物工場と主屋はともに府の有形文化財に指定されており、藤阪天神町に旧田中家鋳物民俗資料館として移築・復元されています。


・・・本当に見晴らしのいい丘です。