・・・兵庫県道13号(尼崎池田線)をひたすら南下します。
・・・途中「近松の里」に寄り道、「アヤメ」が美しい。
◆近松の里◆
661-0977兵庫県尼崎市久々知1丁目4-38
JR尼崎駅より北へ約2キロメートルにある広済寺、近松の墓、近松記念館、近松公園周辺を「近松の里」と名づけ、歴史と文化がふれあう魅力あるゾーンとして整備をしています。「近松の里」では、毎年秋に、近松祭や近松あいあい市(フリーマーケット)が開催され、多くの人で賑わいます。近松門左衛門(1653から1724年)の本名は、杉森信盛と言います。近松は、人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した日本が誇る劇作家です。今でも多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演上映され人びとに親しまれています。
◆【近松記念館】◆
661-0977兵庫県尼崎市久々知1丁目4-38/06-6491-7555
地域の人々により設立された「財団法人近松記念館」は1975年(昭和50)11月22日に開設。平成20年6月にリニューアルオープンしました。資料室は、近松の過去帳、愛用の文机、手紙など近松ゆかりの資料約100点を展示。園田学園女子大学近松研究所のご協力により、近松の出生から菩提寺である広済寺とのゆかり、尼崎とのかかわりなど、近松が生きた歴史に沿った展示で、とても見やすくなりました。ホールも、床や壁などが一新。発表会や展示会など各種催しにご利用いただけます。
近松は1706年の春、永年住み慣れた京都から大阪に移り住み、大阪の船問屋・尼崎屋吉右衛門宅にたびたび逗留していました。船頭や行商人、旅人たちから全国各地の話を聞き集め、それを題材として作品を執筆していたと伝えられています。その船問屋が、尼崎市の久々知にある広済寺を1714年に再興した住職・日昌上人の実家と言われています。日昌上人と近松は親しく交際していたことから、広済寺の再興には建立本願人となって大きく貢献します。1716年9月に近松の母親が亡くなったときも、広済寺で法要を行い、供養のために色紙(しきし)などを納めています。この寺とのつながりが深かった様子が伺えます。このように、近松と尼崎とのかかわりは、晩年の十数年間と思われます。1724年11月22日、72歳で生涯を終え、広済寺の墓(国指定史跡)で眠っています。
●近松シンボルマーク
尼崎ゆかりの劇作家・近松門左衛門が生きた時代とその作品を象徴する「マゲ」と尼崎市のローマ字の頭文字「a」をデザイン化したものです。1989年(平成元)に全国公募(応募作品390点)のなかから最優秀作品に選ばれたものです。
◆広済寺
661-0977兵庫県尼崎市久々知1丁目3-27/06-6491-0815
妙見宮をまつるお寺として、近松門左衛門の菩提寺として、広済寺は知られて来ました。日蓮宗の寺。九五七年(天徳一)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝え、のち荒廃。一七一四年(正徳四)日昌が堂宇を建立。近松門左衛門の墓がある。俗称、近松寺。
広済寺開山如意珠院日昌上人は、大阪の寺島(その後の松島で、現在の大阪市西区千代崎1丁目から3丁目あたりが「松島」にあたる)にあった船問屋、尼崎屋吉右衛門の二男として生まれました。若い時に出家し、信仰の道は、正運院日達上人を師としていました。近松は、日昌上人と親交があったことから、しばしば広済寺を訪れていたと言われています。広済寺本堂の裏には、「近松部屋」と呼ばれる近松の仕事部屋が明治の末まであり、ここで執筆活動をしていたと伝えられています。広済寺境内には、高さ約48センチメートルの緑泥片岩の自然石の近松の墓(国指定史跡)があります。表に近松と妻の法名(戒名)が並んで刻まれているのが特徴です。また、近松作品の成功祈願のため、演劇関係者もしばしば訪れます。
◆須佐男神社
957年、村上天皇の御世に、多田満仲公の勧請により建立されたと伝えられ、神社境内は、江戸時代の『摂津名所図会』にも紹介されています。江戸時代は妙見菩薩を本尊とする「久々知の妙見さん」の名で多くの参拝客を集めていたとのことです。平安中期の武将・源満仲が「汝に鏑矢を授ける故、矢の行きつく所に汝住むべし」と住吉明神の神託をうけ、境内にある石に足をかけ踏んばり、矢に文を結び付け放ったと伝えられる矢文石があります。
・・・阪神「尼崎駅」にようやく到着しました。