ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・御所、そして御苑をぞろぞろと出ます。


どう1


・・・御苑の北側には、


どう2


◆同志社大学・今出川キャンパス

602-0898京都市上京区今出川通烏丸東入075-251-3120

同志社英学校が寺町今出川から移転した1876年以来の歴史と伝統が刻まれたキャンパスです。室町時代には、三代将軍足利義満が開基した京都五山の1つ相国寺塔中(鹿苑院)が、江戸時代幕末には薩摩藩相国寺二本松藩邸が存在していた千年の都・京都を象徴する場所であり、明治時代以降、同志社が引き継いで、レンガ造りの重要文化財が並ぶ京都で有数の歴史的景観を形成しています。


どう3


登録有形文化財アーモスト館1932(昭和7)年

京都市上京区今出川通寺町西入

新島襄の米国での母校アーモスト大学との友好関係から建てられた学生寮。今出川東キャンパスの相国寺通り北側にあります。マンサード(腰折れ)屋根を戴いた鉄筋コンクリート2階建てですが,壁体は、他の同志社の建築物に合わせて煉瓦を積んでいます。外観はジョージアン・コロニアル・スタイルで、ヴォーリズの傑作の一つです。1921年に創立100周年を迎えたアーモスト大学が、同志社に卒業生を送り出すプログラム「アーモスト・同志社プログラム」を開設しました。その第1回学生代表であったS.B.ニコルズの母親やアーモスト大学の卒業生からの寄付により、W.M.ヴォーリーズが設計した建物で、1932年3月に竣工しました。1962年にゲストハウスが、1979年に無賓主庵が寄贈されて、併設施設も充実しています。現在は、主に外国人研究者の長期滞在用の宿泊施設として利用しています。2005年6月に登録有形文化財に指定されました。


どう4


◆相国寺

602-0898京都市上京区今出川通烏丸東入075-231-0301

臨済宗相国寺派大本山の寺である。山号を萬年山(万年山)と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺)という。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭である。永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。義満は、禅の師であった春屋妙葩に開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。


どう5


相国寺は京都最大の禅宗寺院の1つとして、また五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われた。伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に全焼。義満による七重大塔も数年で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360尺)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。昭和4年(1929年)の依佐美送信所鉄塔(250m)竣工までのおよそ530年間、高さ歴代日本一の記録は破られなかった。義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼している。応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失(相国寺の戦い)。天文20年(1551年)にも細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失(相国寺の戦い)、ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。