◆【閑院宮邸跡】◆
602-0881上京区京都御苑3/環境省京都御苑管理事務所075-211-6348
閑院宮家は、伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ江戸時代の四親王家のひとつで、東山天皇の皇子直仁親王を始祖として宝永7年(1710年)に創立されました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。閑院宮家が東京に移った明治10年まで邸宅として使用されましたが、その後は華族会館や裁判所に使用され、明治16年旧宮内省京都支庁が設置された際に、現在の建物になりました。平成15年度から3カ年をかけて全面的な改修と周辺整備が行われ、現在に至ります。収納展示室では、様々な写真や絵画、展示品と解説により、京都御苑の自然と歴史について詳しく知ることができます。また図鑑や参考図書を備えたライブラリーコーナーも設けられています。
※閑院宮邸跡で、明治中期に造られたとされる庭園が復元され、一般公開が2014年3月26日から始まった。この庭園は、以前から公開されていた閑院宮邸跡の西側約1900平方メートルで、かつては旧宮内省京都支庁の所長官舎と庭があった。庭の作者は不詳で、大正期の図面や専門家の助言を基に2年間かけて整備した。新たに井戸を掘り、水を導く伝統的な手法の「やり水」と園池の組み合わせで構成し、池には海辺の景色を表した「州浜(すはま)」を忠実に復元した。官舎跡に設置した縁台からは一面が見渡せ、園路は車いすでも散策できる。今後、桜などを植えていく予定で、環境省京都御苑管理事務所の後藤乙夫所長(59)は「こうした形で宮家をしのぶことができる場所はほかにない。ゆったりした時間を過ごしてほしい」と話した。
◆宗像神社(むなかたじんじゃ)602-0881上京区京都御苑9/075-231-6080
京都御苑内に鎮座。祭神は宗像三女神である多紀理毘売命・多岐津比売命・市岐嶋比売命。北家藤原氏の祖、藤原冬嗣が795年(延暦14)に、平安京の東西両市の守護神として筑前国の宗像神社を勧請したのが創祀とされ、その後冬嗣の自邸小一条第に移したと伝えられる。小一条第は花山院家が相続したことから同家が別当となる。明治天皇の東京上にともない公家町は御苑になされ、邸内社が府社となった。境内のクスの木は樹齢600年とも800年とも言われる。境内社に、花山稲荷神社・京都観光神社・小将井神社・繁栄稲荷神社・金比羅宮がある。例祭、9月15日。近年は例祭日の後の日曜日又は祝日に、例祭とは別に神賑いの日として神楽舞の奉納などを行っている。春と秋には花山稲荷神社・京都観光神社の祭礼があり、神楽舞やヴァイオリンのミニコンサート奉納。1~2月の境内では水仙が咲き乱れる。4月上旬は桜。10~11月にカリンの実がたわわに実る。紅葉の木も色づく11月中旬から下旬が見頃である。
※御苑南部にある宗像神社周辺のクスノキの大木には、毎年4月下旬頃から10月頃までアオバズク が訪れ営巣します。この時期、運が良ければ夕方から夜にかけて、ホウホウという鳴き声が聞けた り、また、7月以降になると、2羽の親と数羽のヒナと仲良く肩を並べている姿を見ることができます。平成4年に「アオバズクのすむ森」として、京都府の自然200選に選定されました。
●京都観光神社
1969年建立。御祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)。昭和の時代になり、京都を訪れる観光客が急増し、その無事息災を祈念し、観光客を迎える全ての観光業者が一丸となって、併せて業界の発展のため、道案内の神をお迎えして建立された。
◆白雲神社(御所の弁天さん)上京区京都御苑内/075-211-1857
旧西園寺家の鎮守社で、祭神は市杵島姫命、妙音弁財天とも称し、音楽の神様としても信仰されている。1224年(元仁1)、西園寺公経が北山殿(現在の金閣寺の地)造営の際に建立した妙音堂に由来するとされる。その後幾多の変転を経て、近古には赤八幡京極寺にもしばらく鎮座され、1769年(明和6)、西園寺邸の移転と共に現在地に移り再興、禁裏御祈祷所と定められ、また庶人の信仰も集めるようになった。明治になって西園寺家は東京へ移り、妙音堂は廃祀の危機に合うが地元有志の尽力により存続、1878年(明治11)、かつての鎮座地名をとり現社名に改められる。礼拝は巳の日毎、午前7時より30分位の参拝式が行われ、お祓い、お清めが受けられます(参拝ご自由・無料)。例祭は毎年6月15日午後1時よりお火焚祭は11月10日午後2時より執行されます。
・・・音楽の神様だから「長谷川きよし」さんの額があったのです。
御所の南西に広がる「桃林」「梅林」と名づけられた場所。文久年間の御所付近の古地図を見ると、このあたりはかつて庭田家、石山家といった公家屋敷があったあたり。庭田家は宇多源氏の流れをくむ家で神楽を家業としていた公家、そして石山家は藤原北家の流れをくみ書道を家業としていた公家です。その向かい側の木がしげっているあたりには、明治維新まで西園寺家の屋敷がありました。「西園寺邸跡」の碑と説明書きが立てられています。西園寺家は琵琶の宗家。鎌倉時代の公卿・西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘・北山殿を造り、この地へは1769年(明和6年)に移ったと言われ、明治になり東京へと移った後はその跡地に白雲神社が建てられました。この場所は西園寺公望が私塾「立命館」を開設した場所でもあります。
●清水谷家の椋
京都御所を取り囲む築地塀の南西の角の近くにあるこの椋の木は、かつてこのあたりが清水谷という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢は約300年といわれ、御苑内でも数少ない大木です。言い伝えによると、蛤御門の変の時、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討死したと伝えられています。
・・・ようやく、御所の手前まで来ました。