・・・古代、柏原市の地域は堅岩(片足羽・カタシワ)、または片塩と呼ばれる土地でした。ちなみに、古事記に記述のある「片塩浮孔宮」の比定地は柏原だと思われています(大阪府初の宮?高田説や橿原説もあり)。カタシワの原ですから「カシワラ」「カシハラ」などと呼ばれるようになりました。また、現在の王寺町を拠点としていた氏族・片岡氏が河内へ進出するときに「柏原氏」と名乗ったのが語源とも言われます。
◆安福寺
582-0028柏原市玉手町7-21/072-978-7023
寺伝によれば奈良時代に行基によって建立されるが、中世には荒れ果ててしまい、小堂がただ一棟あるのみであったという。寛文年間(1661年~1672年ごろ)に浄土宗の僧珂億上人がこの地を訪れ、安福寺を再建する。尾張大納言徳川光友は珂億上人の学徳に深く帰依し、安福寺に寺田を寄付するなど、明治維新に至るまで歴代尾張徳川家により援助を受けた。光友が寄進した「山水蒔絵硯箱」、「牡丹蒔絵硯箱」「菩提樹蒔絵香筥」は国の重要文化財に指定されている。
また、境内には明治時代に玉手山3号墳(勝負山古墳)から出土したとされる「割竹型石棺蓋」が置かれており、かつては手水鉢として使われていた。これも重要文化財に指定されている。最初の小さな門をくぐるとすぐに参道の両側に安福寺横穴群が広がっている。これら横穴群は、谷間の凝灰岩が露出しているところに掘られており、参道南側、北側に各16基、計32基確認されている。かつては古代人の住居であるといわれていた時期もあったが、石棺や陶質棺、陶器などが見つかっており、中には騎馬人物像などの壁画が描かれたものもあり、古墳時代後期の横穴墓であることがわかっている。大阪府の史跡に指定されている。参道を上り、2番目の門をくぐり、境内に入ってすぐ左側に広大な庫裡があり、この南に接して本堂が建っている。 境内のすぐ西側・高台の上は玉手山公園で、行楽客の歓声が境内にまで聞こえてくる。この公園も当寺の所有地になっている。
◆伯太彦神社/柏原市玉出町7-21
近都飛鳥の安宿郡資母郷にあたる柏原市玉手山の安福寺に隣接した天王臺と称する丘陵に伯太彦神社がある。古くは躑躅尾社とも牛頭天皇とも称せられる。創建年代は不詳であるが、平安末期階従五位下延喜式内の古社にして文徳天皇、天安二年(858)一月官社に列せられる。御祭神である伯太彦命は古事伝承によれば伯孫百尊とも称される。伯太彦命(宿孫百尊)は、田邊史の祖で崇神天皇の皇子の豊城入彦命の四世大荒田別命の子孫の努賀君の子とされる。百尊の孫の斯羅が皇極の御代に田邊史一族として安宿郡の資母郷に居を構えたとの伝承がある。白鳳から奈良時代にかけて栄えた藤原氏に仕えた田邊史一族がこの地に勢力を持っており、なかでも田邊史大隈は(中臣)藤原鎌足の資人として活躍した。続日本紀に宝亀元年(770)称徳天皇が由義宮へ行幸した際、博多川(現在の石川)に臨んで宴遊し、百官等が曲水の詩を献上した。翌日には、歌垣を行い「淵も瀬も清くさやけし博多川 千歳を待ちて 澄める川かも」と歌を言祝だ。近くの玉手山丘陵は全山躑躅が咲き誇り盛んに花見の宴を催された様である。明治四年大政奉還布告(神仏分離令)により寺より独立し、明治五年国史に於ける村社に列せられる。明治42年二月に誉田神社へ合祀され、その後自然災害が続いた為、白木村より御神殿を新たに求め当地に祀られる。昭和十一年五月十七日社殿を合祀先より当地に御復帰し若宮殿として並び再祀される。昭和二十二年一月三十日神社法人令により神社庁の神社法人となる。
◆天理教北阪分教会
582-0020柏原市片山町1-19/072-978-6033
玉手山丘陵の北端、柏原市片山町にある。家並みの中に塔屋が頭一つ突き出ており、一種変わった景観となっている。平成17年7月に国の有形文化財に登録された。現在は天理教の教職舎、倉庫、離れとして使われているが、昭和13年頃に大阪市内でメリヤス業を営んでいた個人が別邸として建てた。通常の鉄筋コンクリートの建築とは異なり、建物へのアプローチに元々池があり橋が架かっていた。その橋の欄干だけ、しかも片方だけ残っているが、欄干の所に網状の物が見えるがそれが鉄筋の代わりに躯体として塗り込まれている。こうしたものをモーラ構造と呼ぶ。建物の壁にこうした網が塗り込まれている特徴的な建物である。構造だけでなく外観上も和風なのか洋風なのか、内部も洋室があったり純和風の部屋があったりと非常にバラエティに富んでいる変わった建物である。
庭園も何度も所有者が代わって廃れた状態になっているが、重森三玲が手を付けた庭園であった。教職舎、倉庫、離れ、欄干が登録になっている。この土地の西側、隣地との境界に南北方向に延長74.4メートル、高さ2メートル前後の塀があるが、ここにも左官彫刻が施されていると同時に、モルタルの厚塗りの内部に竹を編んだものが骨組みとして入っていることを確認している。竹筋が構造体として入っていることがわかった。
・・・なんと、ここにも「重森三玲」の庭があったとは。