・・・日本初の旧石器文化を紹介する博物館へ。
まずは・・・
◆屯鶴峯
639-0252奈良県香芝市穴虫(二上山の西北、穴虫峠の近く)
奈良県香芝市にある奇岩群・奇勝。二上山の火山活動により火山岩屑が沈積し、その後の隆起によって凝灰岩が露出し、1500万年間の風化・浸食を経て奇岩群となった標高約150mの岩山。サヌカイトやザクロ石閃緑岩などの岩石が産出する。県天然記念物であり、金剛生駒紀泉国定公園の見所の一つである。第二次世界大戦中に造られた複雑な防空壕があることでも知られる。本土決戦を目前にした陸軍が航空部隊・航空総軍の戦闘司令所として建設されたもので、二つの壕に分かれている。 現在、防空壕の一部は京都大学防災研究所附属地震予知研究センター屯鶴峯観測所として使用されており、地震予知研究計画の一環として地殻変動の連続観測が実施されている。灰白色の断崖が続きそれが鶴の群れに見えることから、遠くからながめると松林に多くの鶴が屯(たむろ)しているように見えることから、「屯鶴峯」(どんづるぼう)と名付けられた。
●讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)
名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。固いもので叩くと高く澄んだ音がするので、カンカン石とも呼ばれる。なお、サヌカイトという名称は、明治政府に招かれ、日本各地の地質を調査したドイツ人地質学者ナウマン博士が、讃岐岩を本国に持ち帰り、知人のバインシェンク博士が研究して命名した。2007年、日本の地質百選に選定された(No.096「サヌカイト」)。
・・・いにしへより、ナニワとサヌキが不思議につながっている。
●ダイトレの起点
ダイヤモンドトレールは、屯鶴峯(どんづるぼう)から槙尾山までのロングトレイル。あちこちに石柱や石碑があり、それをたどる方も結構いらっしゃるようです。そして、時々訊かれることがあります。「ダイトレの起点碑ってどこですか?」起点のどんづるぼうは、府道703号・香芝太子線の府県境穴虫峠から少し東進した奈良県香芝市に入口があります。道路から広い階段を登っていくと、その先でいきなり道が不明瞭になり、白い凝灰岩の上を自由に歩ける、とても不思議な光景が広がります。
●ダイヤモンドトレールは、1970年に大阪府によって整備された自然歩道であり、大阪環状自然歩道の一部を構成している。なお、ダイヤモンドトレールという名称や指定は1972年になされたものである。屯鶴峯~二上山~岩橋山~大和葛城山~金剛山~岩湧山~槇尾山とつながる全長約50kmに及ぶ。大阪・奈良・和歌山県境きっての山を経由する、六甲縦走、比良縦走とならぶ関西地方を代表する縦走路となっている。通称ダイトレ。健脚者の中には一日で走り抜ける者もあるが、交通の便が比較的よくエスケープルートも多いため通常はコースを分割することが多い。
●屯鶴峯地下壕
太平洋戦争の敗戦直前、特攻機を飛ばす命令などを出す戦闘指令所として建設された香芝市穴虫の屯鶴峯地下壕で、NPO法人屯鶴峯地下壕を考える会(楠本雅章理事長)が見学会を開き、市民ら35人が参加した。本土決戦が現実のものになるという旧陸軍の想定の下、二等兵らが手作業の重労働で掘削した2キロの地下トンネル。国内でも屈指の戦跡だが、風化する懸念があるとして、同NPOは保存を訴えている。地下壕は、大阪府境の金剛山地、奇勝としてしられる屯鶴峯(県指定天然記念物)の地下にある。小学校教諭の田中正志さんが案内し、くっきりと残るつるはしの掘削個所やダイナマイトを仕掛けた穴など、生々しい痕跡を解説した。田中さんらが元将校に行った聞き取り調査によると、300人が手掘りの労働に従事し、うち100人は徴兵された朝鮮人だったという。1945年の6月に着工したが、2カ月後に終戦となった。元は香芝町(現・香芝市)の町有財産だった。しかし約30年前、町立体育館の建設に伴い、地方交付税を多く得ようと基準財政需要額などを過大に算定し、違法な超過分の返還を国に求められ、町は資金繰りに苦慮して屯鶴峯を民間企業に売ってしまった。同NPOは地下壕の調査に携わった人々らで作り、見学は94年から毎年、行っている。楠本理事長は「地下壕の表面によっては触れるだけでパラパラとはがれ落ちてくる。大きな落石もあり、風化してきた。何より、この戦争が次第に忘れられ、人々の記憶が風化していく。屯鶴峯は戦争の悲惨さ、残酷さを伝えるものであり、どうしても残したい」と保存を訴えている。
◆防災研究所附属地震予知研究センター屯鶴峯観測所
(http://www.rcep.dpri.kyoto-u.ac.jp/main/obs/don/donJ.html)
どんづるぼう。この奇妙な地名は、実は大阪・奈良の人々にとってはなじみであり、ハイキングなどで 訪れた経験を持っている人もいることでしょう。大阪と奈良の両府県を分ける生駒金剛山系の中央にラク ダの背のように二つの頂が連なった二上山と呼ばれる火山があり、その麓に火山灰起源の岩層の隆起と侵 食で形成された奇怪な地形があります。露出した白い岩 層上に松の樹木が点在する情景を、松林にたたずむ鶴の群れにたとえて、古くから「鶴が屯(たむ)ろした」という意で「屯鶴峯」といわれ、金剛生駒紀泉国定公園の景 勝地として知られています。1978年には奈良県の天然記 念物に指定されました。この地に太平洋戦争の末期1944年ごろから当時の陸軍により、最後の抵抗の拠点とすべく延長2kmにおよぶ網の目状の防空壕が掘削されましたが、予定していた航空総軍戦闘指令所などの軍事施設が完成する前に終戦を迎えました。戦後、この戦争遺跡ともいうべきトンネルの一部(坑道平面図で赤色の部分)が、地震予知を目指す研究のための地殻変動観測坑道として活用されています。地殻変動観測は土地の伸縮や傾斜を精密に観測することで、測量による方法と、トンネル内でひずみ計(水平 に保持した水晶管やスーパーインバー棒を不変長のスケールとして地面の伸縮を計る;この構造のものは伸縮計と呼ぶ)や傾斜計(水平坑道では連通水管の両端の水面を基準面として、その地面からの高さ変化より傾斜を測るものが主流)を使う方法、最近ではGPSなど宇宙技術も使われます。伸縮計・傾斜計による観測は、10のマイナ ス9乗の極微小な歪変化が計測可能で、精密な測定を乱す気温変化などの影響から免れるために地下に計器を設置します。京都大学では、この観測の古い歴史をもっており、阿武山観測所でも触れているように、1912年には理学部地球物理学教室の初代責任者の志田順が、地殻変動観測で記録された地球潮汐の解析から月・太陽による起潮力が引き起こす変形を正確に記述するためのパラメータの一つを提唱し、それはよく知られた数理物理学者A.E.H.Loveの名を冠したラブ数とともに、志田数として現在も地球の物理特性や地殻変動の解析には欠かせない理論の一部を形成しています。その後、地震発生と地殻ひずみの関係も着目され、全国の多くの鉱山や戦後に残された防空壕を利用した観測が行われ、本坑もその一つです。1965年度から地震予知研究計画が始まり、これに基づく観測所として、1967年6月にこのトンネルを利用した防災研究所附属屯鶴峯地殻変動観測所が発足しました。庁舎は坑道 の北約800mの地に鉄筋コンクリート2階建で、1969年3月に竣工、観測坑道の入り口には遠隔記録室が建設され、データが庁舎まで伝送されます。創立当初から助手1名(2008年3月定年退職)、技官1名が常駐し、この坑道とともに後述する衛星観測点なども含めて観測・研究にあたっています。また、防災研究所の研究部門とは密接な連携を保ち、観測所長は関連部門の教授が兼務しています。初代所長は、観測所の官制が施行される前からこの地での観測を進めていた高田理夫教授(現名誉教授)が停年(1987年)まで務めました。データ伝送・処理システムなども充実してきて、1986年のテレメータ化以後は、宇治へもデータが転送されるようになりました。1990年には、防災研究所に地震予知研究センターができたのに伴い同センターに移管され、屯鶴峯観測所となりました。1994年には、地震予知計画に基づき西日本の各観測点が「地殻活動総合観測線」として束ねられましたが、本観測所は近畿地方の中央にあって、上宝、鯖江などの「北陸」と鳥取や阿武山などの「近畿山陰」の両測線の交点として重要な位置にあります。観測坑道は、2000万年前~1500万年前ごろの二上火山群の火成活動の堆積物であるドンズルボー層という地層に掘られています。白色凝灰岩や凝灰角礫岩の素掘りの坑道でしたが、崩落の恐れがあるため、観測坑の部分のみ1979年にコンクリート吹き付け工事を行いました。観測坑道内には各種の伸縮計や傾斜計が設置されており、特色ある機器としては、6成分伸縮計があげられます。通常、伸縮計は水平ひずみの算出のために3方向で測りますが、本坑では均質3次元ひずみを表すのに必要な6パラメータを勘案して、鉛直成分を含む6成分で連続観測を行っています。観測開始からの41年間の連続観測の記録は、地震予知研究の貴重なデータとなっています。最近では近畿中北部で2002-2003年以降、微小地震活動の静穏化や地殻ひずみ速度の変化が各観測所で検出されていますが、本観測所でも、北方の逢坂山などの観測所で変化が始まるのに先立って、変動速度に変化が生じています。また、長期変動は紀伊半島の潮位変動との相関が見られ、プレート運動との関連が示唆されています。定期的に実施してきた中央構造線を跨いだ光波測量では、構造地質学的に求められた中央構造線の右横ずれ(北側が東向きに、南側が西向きに動く)断層運動と調和的な、毎年0.1マイクロストレイン(1千万分の1)の歪みが観測されていますが、これは西日本の広域的な地殻変動の大きさを超えるものではなく、中央構造線自体での滑りは起きていないと考えられます。ひずみの観測以外では、縦坑や各地の井戸での水位観測なども手がけており、これは南海地震直前の井戸水位低下のメカニズムの解明に寄与しています。観測坑道としては、屯鶴峯の本坑のほかに、紀伊半島各地に衛星観測点として、由良町・熊野市紀和町で連続観測を続けています。これらの地域の地下では、現在の地震学のトピックスの一つである低周波地震(地震のマグニチュードの割には周期の長い(低周波の)地震波を放出する)が時折発生し、その発生域が紀伊半島直下を南西から北東方向に移動する現象が各機関の地震観測結果からわかり、プレート沈み込みの場所で何が起きているか、興味深い話題となっています。その他にも、海溝型の南海地震が近づくに従って、これまでの知見にない現象が発生してくる可能性があります。そのため、地震観測とこれまでの地殻変動観測の中間の周波数領域(数百秒、数十分、数時間)もカバーする観測網を調えています。さらに機器開発として、田辺市中辺路の観測点では、ひずみ計の多点分布を可能にする簡易ひずみ計の試験観測も行っています。本観測所の所在地は、大阪奈良間の交通の要衝の一つである穴虫峠であり、高度成長期の荒波にもまれながらも坑道自体は自然の景勝・記念物の“傘の下”かろうじて守られてきた40余年なのですが、広域的に見た場合、内陸地震と海溝型地震の両者を対象とする立地条件にあり、これらのデータによる観測・研究はますます重要さが増すといえます。なお屯鶴峯地下壕については、近年の戦争遺跡に対する興味の深まりの中で史料の発掘などが行われ、本稿冒頭部ではその成果も参考にしましたが、一般坑道部は崩落の危険性があることと、観測に支障をきたすことから、入坑見学はお断りしています。
・・・長くなりましたが、とても興味深い内容です。
◆太子道の地蔵磨崖仏(穴虫)
像高54.0cm/天文17年(1548)/銘文:(右)玉祐逆修(左)天文十七戊申年九月四日
国道165号線の穴虫から県道香芝太子線に入ってすぐ右側の丘陵中腹には、かつての太子道が断片的に残っており、太子町で竹内街道に合流していました。この太子道の脇に高さ約1.6m、幅約2.3mの安山岩の巨石があります。その向かって右側に宝珠と錫杖をもつ地蔵石仏が刻まれています。銘文から「玉祐」という人がこの像を刻み、仏事を修法して自分の冥福を祈る生前供養をおこなったことがわかります。なお、この巨石に「天和三(1683)年 釈栄西 亥十二月五日」とある墓碑が建てかけてありますが、いつ、どういう目的で置かれたのかわかりません。
・・・そろそろ、穴虫です。