ミューズ(2)
年老いた母と「松伯美術館」に行く途中、ふと立ち寄った。
■秋篠寺
奈良県奈良市秋篠町にある寺院で勅願寺の一つ。本尊は薬師如来。開基(創立者)は奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。
■伝・伎芸天立像
像高205.6センチメートル。本堂仏壇の向かって左端に立つ。瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの人を魅了してきた像である。頭部のみが奈良時代の脱活乾漆造、体部は鎌倉時代の木造による補作だが、像全体としては違和感なく調和している。「伎芸天」の彫像の古例は日本では本像以外にほとんどなく、本来の尊名であるかどうかは不明である。秋篠寺には、頭部を奈良時代の脱活乾漆造、体部を鎌倉時代の木造とする像が、本像を含め4体ある。
■この仏像は、頭部のみが天平時代に作られ、体躯は鎌倉時代に作られて、言われなければわからないほどうまく調和している。秋篠寺の伎芸天の美しい姿に、堀辰雄は「東洋のミューズ」と称し、石川達三は小説の中で、伎芸天を「悩みを胸に秘め、それに耐え、何かを探し求め、仏像というより人間に近く、天女というより現実の女性」と表現しました。
■堀辰雄は大和路の中で秋篠寺と伎芸天を次のように画いている。
「いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香にお灼けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい」。
■大自在天女とも言われる、容姿端麗で伎芸の才に優れた天で諸芸成就・福徳円満を司り、容姿端正で入唐した円仁などの請来による「摩醯首羅天法要」「摩醯首羅大自在天王神通化生伎芸天女念誦法」などに拠れば大自在点天が天界に於いて技芸を行う為にシバ神の髪の生え際から現れたとされるが、梵語名は不詳で謎の天女である、一説には舞踊・音曲に優れたマータンガと言う種族の母神であったとされる。日本での信仰は少なく像造された現存像は秋篠寺の天女像のみである。但し経軌「摩醯首羅天法要、大正蔵」などに拠れば左手に一天華(皿に盛花)を持ち右手は下に下ろし衣を捻ると記述されており、姿形から秋篠寺の天女は異像の可能性がある。秋篠寺を訪れた堀辰雄氏の伝伎芸天像に対する心酔度は激しく大和路・信濃路に於いて「東洋のミューズ」「わけてもお慕わしい」とまで言う、重文指定の像は秋篠寺にしか存在せず特に芸道の上達を目指す人々の信仰は厚い。絵画として醍醐寺蔵があり、像として東大寺・園城寺に存在する、また岡倉天心と共に東京美術学校開設に努め、後に教授となった竹内久一による、1893年(明治26年)製作の儀軌に従った技芸天が東京芸術大学にある。
■会津八一の歌碑
秋篠のみ寺を出でてかえり見る生駒ヶ岳に日は落ちんとす
■川田順の歌碑
諸々のみ佛の中の伎芸天何のえにしぞわれを見たまふ
■五木寛之
・・・(本堂前のベンチ)に座って本堂を眺めると、-黙して横たわる本堂は、単純、素朴、そして明快である・・・と感じたとのこと。
■秋篠宮様の宮号
奈良の「秋篠寺」に由来します。その理由は秋篠寺の伎芸天像が宮様の目にとまり、しかもその像が紀子妃殿下によく似てみえたゆえ、特にお気に入りだったからだという事でした。更に。秋篠寺は光仁天皇の勅願寺として、皇室との関連もあり、宮号として相応しいとされた訳です。基本的に奈良の都周辺から宮号を採るのが多くはあります。しかし、それも傾向に過ぎず、決まっているということでもありません。寺から宮号を採ったのは、最近では秋篠宮さまだけです。
三笠宮・・・奈良の三笠山から
高松宮・・・有栖川宮家の旧称を継承
高円宮・・・奈良の高円山から(三笠山のすぐちかく)
常陸宮・・・常陸国(今の茨城県)から 常陸は古代の親王任国
桂宮・・・・・お印が「桂」だったから
■新宮号「秋篠宮」、奈良北西の里に由来(1990年6月29日読売新聞)
「秋篠宮」の新宮号伝達は、「結婚の儀」終了後の午前11時半、宮殿「薔薇(ばら)の間」で、山本悟侍従長が、新宮号を記した陛下のご沙汰(さた)書を礼宮さまに渡す形で行われた。新宮家の誕生は昭和63年の桂宮家以来で、宮家はこれで八宮家となった。新宮号の「秋篠宮」は、20―30の候補の中から宮内庁が絞り込み、最終的に天皇陛下がお決めになった。奈良市北西に広がる秋篠の里が由来で、宮内庁では、〈1〉古くから名所として歌に詠まれてきた〈2〉第49代光仁天皇、第50代桓武天皇が崇敬した秋篠寺があり、皇室とゆかりが深い〈3〉静かに落ち着いた所のイメージがある--などを選定理由としている。秋篠宮家のご紋章も、十四葉の菊花を横向きの菊花と礼宮さまのお印(しるし)である栂(つが)の枝葉で囲んだ図柄に決まった。紀子さまのお印と同様、デザインは吉田左源二東京芸大教授が担当した。
・・・穏やかな秋晴れの大和「秋篠寺」で天女「伎芸天」に出会い、「松伯美術館」へと向かう。