高野山(8)
■司馬遼太郎文学碑
高野山開創1200年記念大法会記念事業、「司馬遼太郎文学碑」を建立いたしました。除幕式は去る平成20年9月24日(水)午前11時より、来賓に上村洋行司馬遼太郎記念館館長ならびに上村元子同副館長、後藤太栄高野町町長をお迎えし、管長松長有慶猊下はじめ本山役職員、多くの参拝者に見守られながら行われました。生前、司馬遼太郎氏は、幾度となく高野山を訪れ、精力的な取材活動を行い「空海の風景」を上梓したといわれています。
高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。
山上は、ふしぎなほどに平坦である。
そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時、勤仕されている。
その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。
大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなづき、四季四時の虚空がひどく大きい。大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。
(「高野山管見」「歴史の舞台―文明のさまざま」より)
■街道をゆく
作家・司馬遼太郎が昭和46年(1971)から25年間、週刊誌に連載した思索紀行文学です。連載期間は作家生活の3分の2の年月を占め、訪ね歩いた街道は72にのぼります。この作品を元に、「国家・文明・民族とは何か」と問い続けた司馬さん、われわれが歩んできた道はどういう道で、その道がどこへ向かおうとしているのか。
・・・今ブログしている「街道めぐり」や「高野山」などのきっかけに司馬遼太郎さんの存在があるわけですが、さらに山頭火さんが重なりました。
■種田山頭火「人生即遍路」
あるけばかつこういそげばかつこう
分け入つても分け入つても青い山
どうしようもない私が歩いている
すべつてころんで山がひつそり
また一枚脱ぎ捨てる旅から旅
まつすぐな道でさみしい
・・・すごくシンプルで、かつ「動的」で好きです。
■遍路
日本の各種の巡礼のなかで、四国八十八か所霊場を巡る巡礼をとくに遍路といい、その巡礼者そのものも遍路(お遍路さん)という。この文字は中世末から江戸時代初めに用いられ始めたもので、それ以前は「辺路」と書かれ、『今昔物語集』(12世紀前半)や『梁塵秘抄』(12世紀後半)では「へじ」と読まれた。これが海辺の路をさしたことは『今昔物語集』(巻31第14話)で明らかであるが、それには「四国辺地」と書かれている。このような「海辺ノ廻」の修行が四国の弘法大師信仰と結合して、弘法大師空海の旧跡を巡る巡礼になったのが遍路である。
■中の橋駐車場
「奥の院」へ続く参道の入口にある大型駐車場です。
・・・とにかく、歩き続けるしかありません。