高野山 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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高野山(9)


■芭蕉の句碑

「父母のしきりにこひし雉子(キジ)の声」

この歌は良弁(ろうべん)が詠んだとされる、「ほろほろと啼は山田の雉子のこ(声)へ父にやあらん母にやとおもひしたる」の返歌であるといわれています。「山に入ってホロホロと鳴くキジの声を、独り聞いていると、あれはひょっとすると、亡くなった父や母の生まれ変わりで はないだろうか・・・」と良弁(天平時代の名僧で日本華厳宗の第二祖)が詠みました。芭蕉の方は、奥之院参詣での道すがら「キジの鳴き声を聞いていると、しきりに父母が恋しいと鳴いているように聞こえる」と詠んだわけです。芭蕉は貞享5年(1688)、父母の供養にと高野山に登ったと伝えられていますので、この頃に詠んだものかも知れません。同じようにキジの鳴き声を聞いても、受手の心境によってもとらえ方が違うものだと感じさせます。芭蕉は、伊賀国(現三重県)上野に生まれ、後に、江戸から東北・北陸地方を旅しましたが、このときの紀行文「おくのほそ道」は、近世文学の代表作として特に有名です。元禄7年(1694)年、旅の途中で病にたおれ、10月12日に没しました。また、芭蕉の句碑に刻まれる文字は、池大雅筆とされています。池大雅は享保8年(1723)生まれで、主に京都で活躍した文人画家・書家として知られています。芭蕉の句碑は安永4年(1775)に建立されており、大雅の没年は安永5年(1776)ですので、およそ亡くなる前年頃に記されたものであることがわかります。



すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ばし1


結城(松平)秀康石廟

国の重要文化財に指定されている結城(松平)秀康石廟秀康は徳川家康の二男です。はじめは秀吉の養子となったものの、結城氏の名跡を継いで、後に越前福井藩67万石の城主になりました。結城秀康は慶長12年(1607)に34歳で父より先に他界しました。石造の入母屋造、桁行3間(5.4m)、梁間3間の構造です。正面に軒唐破風が付いています。外壁や柱、扉には彫刻や銘文が施されています。家康はその死を悲しみ、同年この石廟を築いたとされています。結城秀康の石廟の左隣には秀康の母の霊屋があります。同じ石造で桁行2間、梁間3間で切妻造です。ここも国の重要文化財に指定されています。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ばし2


其角の句碑

卵塔の鳥居やげにも神無月

江戸前期の俳諧師、宝井其角の句碑です。芭蕉とは対照的で、平明で口語調の洒落風を起こしました。



すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ばし3


・・・豊臣家墓所、そうだ「大阪城」へ行こうと思います。


■玉川/御廟橋

御供所のすぐ奥に玉川と呼ばれる清流が流れている。玉川は霊峰揚柳山から湧き流れる神聖な川で、禊の場となっている。下流は有田川に至る。

御廟橋は、36枚の橋板で造られており、全体を枚と数えて金剛界三十七尊を表している。それぞれの裏面には種子(梵字)が刻み込まれている

水行場と御廟橋の間の玉川に背を向けて地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩などが安置されている。これらを総称して水向地蔵(みずむけじぞう)と呼ぶ

御廟橋のすぐ上流の川床に卒塔婆が立てられている。水難や難産で死んだ人たちを供養するためのもので流水灌頂という。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ばし4


弘法大師御廟

承和2年(835)3月15日、大師は入定の日は21日の寅の刻であると告げ、二十五ヵ条の遺誡(ゆいかい)状を弟子たちに渡した。その日から洞窟に篭り、21日、結跏趺坐(けっかふざ)したまま、生きるが如く入定されたと伝えられる。「56億7千万年の後、弥勒菩薩がこの世に出られるまで、生きとし生けるものすべてを見守る」と誓って、弟子たちの前から姿を消したのである。おん年62歳であった。大師が入定した洞窟の上には、三間四方の宝形造りの廟が建立された。弘法大師御廟である。



すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ばし5


・・・もちろん撮影禁止ですから、いろいろな資料から引用させていただきました。