中之島 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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中之島(23)


「天神橋六丁目」まで来たのだから・・・


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-せき1


「関目高殿」にある高校の同級生がやってる喫茶店へ・・・


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不思議なつながりで、「京街道」沿いに店がありました。


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その起点は・・・「高麗橋」なのです。


京街道(大坂街道)

大坂街道は、近世日本の街道で京街道とも呼ばれた。大坂(大阪市)から京(京都市)を結んでいた。大坂(大阪)の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京(京都)に向かう街道である。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、文禄5年(1596年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源である。淀から京都の間は大きく2つのルートが取られた。1つは桂川左岸を進む鳥羽街道であり、もう1つは現在の宇治川右岸の淀堤を経て伏見に至り、伏見から伏見街道あるいは竹田街道を経て京都中心部に達する。伏見から大阪までの道のりは、五街道の一つである東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4宿場が設けられた。東海道の大津宿から髭茶屋追分で京都・三条大橋へ向かう道と分かれ、京都を通らず大津街道を通りこれら4宿場を経て大坂に至る道のりは、参勤交代の経路としても用いられた。東海道五十七次と呼ぶこともある。また、淀宿と枚方宿の間に橋本という遊郭を持った間の宿が設けられていた。伏見・大坂間は淀川を利用した舟運が盛んであり、陸路の利用は大坂からの上り客が多かった。明治時代に入ると、鳥羽街道を経るルートが大阪街道とされ、京都・大阪間の国道(旧京阪国道)も伏見を通らないこちらのルートが選択された。 伏見を含む4つの宿場に沿っては、京阪電鉄京阪本線が通っている。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-せき4


高麗橋

大阪府大阪市中央区にある東横堀川にかかっている橋とその周辺地域の地名である。橋の名の由来は、古代に朝鮮半島諸国の使節を迎えた「高麗館(こまのむろつみ)」があったからという説と、豊臣秀吉の大坂町割りの際、この辺に朝鮮との交易の拠点があったという説など、多数ある。豊臣秀吉が大坂城を築城した際に、東横堀川が同城の外堀として整備された。高麗橋はその際に架けられたと言われている。江戸時代には東海道の終着である京(京都)と大坂を結ぶ京街道(大坂街道)の起点が京橋から移されて、後には中国街道など大坂と地方を結ぶ街道がこの橋まで延伸された事から、大坂の玄関口として整備された。江戸幕府もこの橋を重要視し、公儀橋として直接管理している。さらにこの脇に高札場を設置している。 明治維新後、明治政府はここに里程元標を置き、西日本の道路の距離計算の起点となった。明治3年(1870年)に大阪で初めての鉄橋として架け替えられた。設計は本木昌造で、資材はイギリスから輸入されたが、当時の日本の契約に対する認識不足により当初の2倍ほどの価格を完成後に追加請求され、外交上の問題にまで発展した。当時は「鉄橋」「くろがね橋」などとよばれた。昭和4年(1929年)には大阪市の第一次都市計画事業の一環として鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられ、現在に至っている。現在は橋の真上には阪神高速が架けられている。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-せき5


中之島界隈の様々な橋の紹介の中にも、昔の「高麗橋」の錦絵がありました。