中之島 | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

中之島(15)


天満橋の手前に・・・


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-にょ1


暗くてよく見えなかったので、帰ってから調べますと・・・


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-にょ2


■如春

車道で挟まれていますので、手前の横断歩道から近づくしかありません。ブロンズ像正面「如春」というプレートがあります。手前のポールには鎖やロープが張られ足下もでこぼこしているので近づくのは難しそうです。由来銅版によると、「天満重ね橋」の完成を祝い、交通安全を願って昭和45年に建立され、大阪市に寄贈されたものです。作者は山中靖三さん、「如春」の書は、元大阪市長・中馬馨さんの筆です。

山中靖三(1917?~1986)

山中さんは近代大阪の彫刻界のパイオニア、本像は和の情緒を堅実な人体造形に内包させている・・・と美術書で解説されています。新槐樹社委員、大阪彫刻家会議副会長だったようです。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-にょ3


天満重ね橋

八百八橋と言われるほど大阪は橋が多数。協和設計は、その中でも特に有名な「天満重ね橋」の設計を手がけています。浪速の3大橋の一つである「天満橋」は、古い歴史をもっていますが、現在の「天満重ね橋」は旧市電の軌道敷部の荷重と、高架橋とを置き換える形式で、階建の橋として架設したもの。協和設計ならではの発想と技術の結晶であり、都心部における一大景観として広く市民に親しまれています。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-にょ4


将棊島(しょうぎじま)

江戸時代、天満橋は公儀橋に指定され、幕府により直轄管理されており合流地点の逆流を防止するために築かれた将棊島(しょうぎじま)と呼ばれる堤防を跨ぐ橋となった。1878年に新しい木橋が谷町筋と空心町筋(現在の天満橋筋)を結ぶ位置に架け替えられたが木橋は1885年の淀川大洪水により流失、鉄橋に架け替えられ路面電車(大阪市電)の往来による揺れが問題化したため1935年に耐震構造をもった現在の橋に架け替えられた。1909年の淀川改修工事によって将棊島(しょうぎじま)が姿を消している。

将棊島は、淀川の水が寝屋川・鯰江川に逆流して水害を引き起こすのを防ぐために、三つの河川の合流点の網島から天満橋を越えて236間(約430m)余り下流まで築かれた隔流堤で、幅7間(約13m)あった。淀川治水のため、明治6年(1873年)に来日したオランダ人技師デ・レーケ、エッシェル、ティッセンの3人は、その翌年、将棊島地先にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施した。これは木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物で、水の勢いを弱め、護岸に効果があった。この工法はケレップ水制とも呼ばれ、現在でも城北公園北側の淀川左岸にその名残を留める。デ・レーケは来日してから29年間、大阪にとどまり、淀川の治水と大阪湾の建設に尽力した。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-にょ5


南天満公園

大川北岸沿いの都市公園で桜の名所の一つ。南天満公園には記念のモニュメントが多い。淀川三十石船舟唄歌碑は江戸時代に八軒家浜船着場から伏見まで運行された三十石船で唄われた船唄の歌碑。天満青物市場跡碑は17世紀に開設され1931年に福島区の中央卸売市場に統合されるまで存在した天満青物市場を記念する碑。将基島粗朶水制跡(しょうぎじまそだすいせいあと)碑。天満の子守歌碑は『ねんねころいち天満の市よだいこ揃えて~』と天満青物市場歌ったなにわの歌を記念するもの。南天満公園を歩くと天満の歴史がわかる。