46隼人塚古墳
最も探すのに苦労した古墳です。
完全に四方を住宅に囲まれており、家と家との隙間から入るしかありません。
雄略天皇陵の長尾街道をはさんだ北すぐ、新興住宅地の中に、雄略天皇天皇陵の陪塚「隼人塚」があります。この隼人塚については『日本書紀』清寧天皇元年には下記のように記述されています。「冬十月癸巳朔辛丑(9日)大泊瀬(雄略)天皇を丹比の高鷲原の陵に葬る。時に隼人、陵の側で晝夜哀號して、食を喫さず七日にして死す。有司、陵の北に墓を造りて禮葬する」小さな墳丘の上には「忠臣隼人の墓」と書かれた石碑が有りますが、現在は傍まで行く道すらなく、住宅と住宅の間から、僅かに石碑が見えるだけです。もちろん近所の人に尋ねても、隼人塚の存在を知っている人は殆んどいません。
イズミヤからLicはびきのに向かう途中に、看板だけがあります。
47軽里4号墳
平成3年(1991)に古市大溝の南側肩部にあたる地点を調査したところ、大溝によって墳丘が破壊された古墳が発見され、西向きの前方後円墳であることがわかりました。残存する後円部から復元すると、後円部直径が13.6m、前方部の長さ4.6mを測り、墳丘長が18.2mとなります。主体部はすでに古市大溝によって破壊されており、調査では確認できませんでした。しかし、周溝から副葬品の一部と考えられる馬具が発見され、墳丘には円筒埴輪や盾形埴輪が認められました。その他、家形や馬形・人物形埴輪なども見つかっています。また、前方部ではお祭りに使用した 須恵器や土師器が出土し、これらの土器の特徴からこの古墳は5世紀末ごろに築造されたことがわかりました。
48東山古墳(藤井寺市野中2丁目)
誉田御廟山古墳西側外溝に沿って位置しており、陪塚と考えられます。周囲には農地が多く残り、宅地開発が比較的遅かったこともあり、昔の地形をよく残しています。東山古墳の北側に並び存在していた野中アリ山古墳は大戦後の開墾、1958年の発掘調査を経て、造成され消滅しました。現在、医療施設の敷地となっています。
49土師寺跡礎石群
道明寺・道明寺天満宮が土師寺の法灯を継ぐとされ、現在「土師寺」と呼ばれるお寺は、藤井寺市には存在しません。その名のとおり土師寺は、土師氏の氏寺であったとされています。道明寺と言えば、菅原道真が有名ですが、この菅原姓も土師氏の後裔にあたります。「土師姓」は垂仁朝に古墳埋葬の折の殉死に替わるものとして埴輪を考案した功により、野見宿祢が賜ったもので、南河内周辺に基盤を築いたとされています。土師氏は古くから祭祀や葬送に関する氏族であったのでしょう。土師寺は、江戸時代の洪水対策と明治の神仏分離の政策などが絡んで現在の地に道明寺・道明寺天満宮として分離されています。古代土師寺はこれら全てを含む形で、東高野街道を西に控えた壮大な寺域が想定できるようです。伽藍規模は、現在道明寺の南西に位置する西之宮神社(天然記念物のモクゲン樹のある)を寺域の南西端とし、主要伽藍を寺域東に寄せていたと考えられ、伽藍配置は江戸時代の絵図などから四天王寺式であったとされています。
道明寺天満宮の石段から南へ80メートルほどいった道路の右側に大きな石が数個置かれています。古代道明寺五重塔の礎石群です。最も大きい石には直径90センチ、深さ15センチほどの円形の穴が彫り込まれています。穴のまわり幅10センチほどが平らにつくられ、直径1メートルを超える太い柱を受けていたことが知られます。この石は、五重塔の心柱を受けたところから特に心礎と呼ばれています。元は参道の中央付近にあったのですが、西側の参道脇に移動されたようです。
土師寺は昭和11年(1936年)、石田茂作さんが著した『飛鳥時代寺院址の研究』の「土師寺」という項目で紹介され、学界周知の遺跡になりました。しかし、寺院の範囲がすでに住宅地となっていたこともあって、その後新しい知見もなく経過しました。ところが、昭和52年(1977年)以降、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会の発掘調査が実施され、いくつかの新しい事実が明らかになりました。「土寺」と墨書きされた土器が見つかりました。藤井寺市民病院の北西で、土師寺の推定寺域内にあります。この寺が志紀郡土師郷にあって、土師氏の氏寺であろうと従来からいわれていましたが、それが実物によって確認されました。道明寺会館の事前発掘調査で出土した大量の瓦から、それまで知られていた軒丸瓦以外に高句麗様式の非常に古い軒丸瓦が見つかりました。この瓦の出土によって土師寺は、7世紀前半には一部の建築がすでに始まっていた可能性がでてきました。ただ、この型式の軒瓦は少量しか使われなかったと思われますので、土師寺の堂塔が完成したのは7世紀後半になってからだったと考えられています。